第三十七話 湯霧の谷
峠を越えると、世界が変わった。
白い斜面を下りきったところで、空気がふいに温んだ。前を行くゲルト様の背に湯気がまとわりつく。谷底から白い霧が立ちのぼって、朝の光を乳色に濁らせていた。
岩の間から、湯が湧いている。
あちこちで、細い湯気の柱が上がっていた。雪はまばらで、湯の流れる岩肌には驚くほど濃い緑の苔が生していた。冬のさなかの緑を、わたくしはこの谷で初めて見た。
湯霧の谷。
名前のとおりの場所だった。
「奥方様!」
橇を迎えたのは、カイだった。頬を上気させて雪の斜面を駆け上がってくる。その後ろから、痩せた男たちと頭布を巻いた女たちが、遠慮がちに集まってきた。
みんな、貧しい身なりをしていた。継ぎだらけの毛皮。すり切れた靴。けれど、その目に卑屈さはなかった。里で「山者」と呼ばれる人々の目は、思っていたよりずっとまっすぐだった。
「爺様が、待ってます。……起きて、待ってます」
カイの声が震えていた。
案内された家は、湯の湧く岩を背にした大きな茅葺きだった。中に入ると暖かい。床下を湯が流れているのだという。この谷の家は、湯で暖を取る。
通り抜けざまに、土間の隅の壺が目に入った。ざらついた灰色の塩が、無造作に盛られている。谷の湯から採ったものだろう。里の塩壺が銀のように扱われるのに、この谷では、それは足元に転がされていた。
その奥の寝床に、ヨルンはいた。
小さな老人だった。骨と皮ばかりで、顔じゅうが皺だ。けれど寝床の上に自分の力で半身を起こし、まっすぐにわたくしを見ていた。
「……あんたが」
しわがれた声だった。
「重湯の、奥方か」
「リーゼロッテと申します。……アイゼンファルクの、妻でございます」
ヨルンの目が、ゆっくりと見開かれた。
それから、痩せた手が震えながら寝床の上をさまよった。何かを探している。カイが慌てて祖父の手を取ると、その手はカイの指をぎゅっと握り、そして──老人は深く頭を下げようとした。
「ヨルン様、いけません」
わたくしは膝をついて、その肩を支えた。骨が掌に当たった。
「頭をお下げになるのは、わたくしのほうです」
ヨルンが、顔を上げた。
わたくしは、その皺だらけの手を両手で包んだ。
「三年前」
声が震えないように、ゆっくりと言った。
「医者が匙を投げた男の枕元に、三日三晩座っていてくださった方がいると聞きました。その方の煎じた薬で、あの人は生き延びました」
部屋が、しんとした。
カイが目を丸くしている。この子は知らなかったのだ。爺様が助けたという「死にかけの人」が誰だったのかを。
「あの人は、三年、そのことを誰にも言いませんでした」
わたくしは続けた。
「なぜ黙っていたのか、あの人は、一度も口にいたしません。……けれど、そういう方なのです」
言えば、谷が困る。穢れの民の薬で辺境伯が生きていると知れれば、教会も里も、この谷を放ってはおかない。そう考えたのだろうと、わたくしが勝手に思っているだけだ。あの人は理由を語らず、ただ、三年、黙っていた。
語らなかったという事実だけを、わたくしはこの老人に手渡した。
ヨルンの目から、涙が皺を伝って流れ落ちた。
「あの人から、伝言を預かってまいりました」
わたくしは、老人の手を握りしめた。
旦那様が扉のところで足を止め、こちらを見ずに言った言葉。三年、飲み込んできた、たったひと言。
「──生きている、と」
ヨルンの喉から、声にならない音が漏れた。
痩せた肩が大きく震えた。両手で顔を覆って、その老人は子どものように泣いた。カイがわけも分からずに祖父の背をさすっている。戸口の女たちが、袖で目を押さえていた。
わたくしは、待った。
やがて、ヨルンは顔を上げた。涙で濡れた顔で、けれど笑っていた。
「……そうか。あの若いのが」
しわがれた声が、言った。
「生きとるか」
「はい」
「よう、食うか」
その問いに、わたくしは胸を突かれた。
この老人は、真っ先にそれを聞いた。生きているか、の次に。よく食うか、と。
「……はい。よく、食べます」
わたくしは、涙を拭いもせずに答えた。
「昨日の朝は、粥を二杯。それから、うまい、と申しました。……三年ぶりに」
ヨルンは、しばらく黙って天井を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「わしの薬は、命を繋ぐだけじゃ。……食わせるほうが、ずっと難しい」
その言葉に、わたくしは何も返せなかった。
この人は知っている。匙のことを、知っている。医者でも術師でもなく、山の蔵を守ってきただけの老人が。
涙の引いた頃合いを見て、わたくしは老人の顔をあらためて見た。
頬の削げ方。唇の乾き。手の甲の皮の戻りの遅さ。
「ヨルン様。今朝は、何を召し上がりました」
「……朝は、白湯だけじゃ」
カイが、うつむいて口を挟んだ。
「嵐で峠が塞がってから、麦が尽きて。……この十日は、また戻すようになって。粥はもう、無理なんです」
わたくしは頷いた。乳粥まで登った段を、この人は転げ落ちている。谷に麦が届かなかった十日が、そのまま体から抜けていったのだ。
「戻すのは、口に入れてすぐ?」
「……すぐじゃ」
「水は」
「水は、通る」
答えを聞きながら、わたくしは老人の手首に指を当てた。脈は速く、細い。けれど、まだ十分に打っている。
登り直せる。今なら、まだ。
「ヨルン様」
わたくしは、荷の包みを解いた。大麦。蜂蜜。ハンナの香草。
「今度は、わたくしの番でございます」
「……なんじゃと」
「命を繋いでくださった方に、食べていただきます。粥は、まだ早うございます。一段、引き返しましょう。……重湯から、また一段ずつ」
ヨルンの皺だらけの顔が、ゆっくりとくしゃりと崩れた。
「……敵わんな。里の女子には」
その日の夕暮れ、わたくしは谷の竈を借りて、大麦を炊いた。
湯を沸かすのに薪は要らなかった。噴き口の湯は、指も入れられぬほど熱い。岩から引いた湯に鍋を沈めるだけで、麦はことことと煮えていく。谷の女たちが遠巻きに、わたくしの手元を見ていた。粒が踊らない火加減。蟹の吹くような泡。布で漉して、上澄みだけ。
器を運ぶと、ヨルンは自分の手で受け取ろうとした。
「お手を、お貸しします」
「……いや」
老人は、震える手で器を包んだ。
「自分で、飲みたい」
ひと口。喉が、ゆっくり動いた。
わたくしは、その喉の動きを見つめていた。三年前、この人も、こうやって誰かの喉を見つめたのだろう。眠らずに、三晩。
恩というものは、こうして輪になって帰ってくるのかもしれない。
器の底が見えるまで、ずいぶんかかった。飲み終えて、ヨルンは長いこと息を整えていた。
それから、痩せた手で、器をわたくしに返した。
「……明日」
しわがれた声が言った。
「蔵を、見せる」
戸口で、谷の女たちが息を呑む気配がした。カイが、大きく目を見開いてこちらを見ている。
窓の外で、湯気が白く立ちのぼっていた。
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