表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/54

第三十七話 湯霧の谷

 峠を越えると、世界が変わった。


 白い斜面を下りきったところで、空気がふいに温んだ。前を行くゲルト様の背に湯気がまとわりつく。谷底から白い霧が立ちのぼって、朝の光を乳色に濁らせていた。


 岩の間から、湯が湧いている。


 あちこちで、細い湯気の柱が上がっていた。雪はまばらで、湯の流れる岩肌には驚くほど濃い緑の苔が生していた。冬のさなかの緑を、わたくしはこの谷で初めて見た。


 湯霧の谷。


 名前のとおりの場所だった。


「奥方様!」


 橇を迎えたのは、カイだった。頬を上気させて雪の斜面を駆け上がってくる。その後ろから、痩せた男たちと頭布を巻いた女たちが、遠慮がちに集まってきた。


 みんな、貧しい身なりをしていた。継ぎだらけの毛皮。すり切れた靴。けれど、その目に卑屈さはなかった。里で「山者」と呼ばれる人々の目は、思っていたよりずっとまっすぐだった。


「爺様が、待ってます。……起きて、待ってます」


 カイの声が震えていた。


 案内された家は、湯の湧く岩を背にした大きな茅葺きだった。中に入ると暖かい。床下を湯が流れているのだという。この谷の家は、湯で暖を取る。


 通り抜けざまに、土間の隅の壺が目に入った。ざらついた灰色の塩が、無造作に盛られている。谷の湯から採ったものだろう。里の塩壺が銀のように扱われるのに、この谷では、それは足元に転がされていた。


 その奥の寝床に、ヨルンはいた。


 小さな老人だった。骨と皮ばかりで、顔じゅうが皺だ。けれど寝床の上に自分の力で半身を起こし、まっすぐにわたくしを見ていた。


「……あんたが」


 しわがれた声だった。


「重湯の、奥方か」


「リーゼロッテと申します。……アイゼンファルクの、妻でございます」


 ヨルンの目が、ゆっくりと見開かれた。


 それから、痩せた手が震えながら寝床の上をさまよった。何かを探している。カイが慌てて祖父の手を取ると、その手はカイの指をぎゅっと握り、そして──老人は深く頭を下げようとした。


「ヨルン様、いけません」


 わたくしは膝をついて、その肩を支えた。骨が掌に当たった。


「頭をお下げになるのは、わたくしのほうです」


 ヨルンが、顔を上げた。


 わたくしは、その皺だらけの手を両手で包んだ。


「三年前」


 声が震えないように、ゆっくりと言った。


「医者が匙を投げた男の枕元に、三日三晩座っていてくださった方がいると聞きました。その方の煎じた薬で、あの人は生き延びました」


 部屋が、しんとした。


 カイが目を丸くしている。この子は知らなかったのだ。爺様が助けたという「死にかけの人」が誰だったのかを。


「あの人は、三年、そのことを誰にも言いませんでした」


 わたくしは続けた。


「なぜ黙っていたのか、あの人は、一度も口にいたしません。……けれど、そういう方なのです」


 言えば、谷が困る。穢れの民の薬で辺境伯が生きていると知れれば、教会も里も、この谷を放ってはおかない。そう考えたのだろうと、わたくしが勝手に思っているだけだ。あの人は理由を語らず、ただ、三年、黙っていた。


 語らなかったという事実だけを、わたくしはこの老人に手渡した。


 ヨルンの目から、涙が皺を伝って流れ落ちた。


「あの人から、伝言を預かってまいりました」


 わたくしは、老人の手を握りしめた。


 旦那様が扉のところで足を止め、こちらを見ずに言った言葉。三年、飲み込んできた、たったひと言。


「──生きている、と」


 ヨルンの喉から、声にならない音が漏れた。


 痩せた肩が大きく震えた。両手で顔を覆って、その老人は子どものように泣いた。カイがわけも分からずに祖父の背をさすっている。戸口の女たちが、袖で目を押さえていた。


 わたくしは、待った。


 やがて、ヨルンは顔を上げた。涙で濡れた顔で、けれど笑っていた。


「……そうか。あの若いのが」


 しわがれた声が、言った。


「生きとるか」


「はい」


「よう、食うか」


 その問いに、わたくしは胸を突かれた。


 この老人は、真っ先にそれを聞いた。生きているか、の次に。よく食うか、と。


「……はい。よく、食べます」


 わたくしは、涙を拭いもせずに答えた。


「昨日の朝は、粥を二杯。それから、うまい、と申しました。……三年ぶりに」


 ヨルンは、しばらく黙って天井を見ていた。


 それから、ぽつりと言った。


「わしの薬は、命を繋ぐだけじゃ。……食わせるほうが、ずっと難しい」


 その言葉に、わたくしは何も返せなかった。


 この人は知っている。匙のことを、知っている。医者でも術師でもなく、山の蔵を守ってきただけの老人が。


 涙の引いた頃合いを見て、わたくしは老人の顔をあらためて見た。


 頬の削げ方。唇の乾き。手の甲の皮の戻りの遅さ。


「ヨルン様。今朝は、何を召し上がりました」


「……朝は、白湯だけじゃ」


 カイが、うつむいて口を挟んだ。


「嵐で峠が塞がってから、麦が尽きて。……この十日は、また戻すようになって。粥はもう、無理なんです」


 わたくしは頷いた。乳粥まで登った段を、この人は転げ落ちている。谷に麦が届かなかった十日が、そのまま体から抜けていったのだ。


「戻すのは、口に入れてすぐ?」


「……すぐじゃ」


「水は」


「水は、通る」


 答えを聞きながら、わたくしは老人の手首に指を当てた。脈は速く、細い。けれど、まだ十分に打っている。


 登り直せる。今なら、まだ。


「ヨルン様」


 わたくしは、荷の包みを解いた。大麦。蜂蜜。ハンナの香草。


「今度は、わたくしの番でございます」


「……なんじゃと」


「命を繋いでくださった方に、食べていただきます。粥は、まだ早うございます。一段、引き返しましょう。……重湯から、また一段ずつ」


 ヨルンの皺だらけの顔が、ゆっくりとくしゃりと崩れた。


「……敵わんな。里の女子には」


 その日の夕暮れ、わたくしは谷の竈を借りて、大麦を炊いた。


 湯を沸かすのに薪は要らなかった。噴き口の湯は、指も入れられぬほど熱い。岩から引いた湯に鍋を沈めるだけで、麦はことことと煮えていく。谷の女たちが遠巻きに、わたくしの手元を見ていた。粒が踊らない火加減。蟹の吹くような泡。布で漉して、上澄みだけ。


 器を運ぶと、ヨルンは自分の手で受け取ろうとした。


「お手を、お貸しします」


「……いや」


 老人は、震える手で器を包んだ。


「自分で、飲みたい」


 ひと口。喉が、ゆっくり動いた。


 わたくしは、その喉の動きを見つめていた。三年前、この人も、こうやって誰かの喉を見つめたのだろう。眠らずに、三晩。


 恩というものは、こうして輪になって帰ってくるのかもしれない。


 器の底が見えるまで、ずいぶんかかった。飲み終えて、ヨルンは長いこと息を整えていた。


 それから、痩せた手で、器をわたくしに返した。


「……明日」


 しわがれた声が言った。


「蔵を、見せる」


 戸口で、谷の女たちが息を呑む気配がした。カイが、大きく目を見開いてこちらを見ている。


 窓の外で、湯気が白く立ちのぼっていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ