第三十六話 三倍の値、ひと匙の道
書状は、短かった。
来月より、塩の卸値を三倍とする。北部への供給は、その値でのみ行う。ザルツ商会。それだけだ。挨拶も理由も、詫びの一言もない。
卓の上に広げられたその一枚を、城の主だった者が囲んでいた。
ヨーゼフが、いちばん先に口を開いた。
「──なりませぬ」
枯れ枝のような老家令の声が、震えていた。
「三倍。台所の払いの三つにひとつが塩でございます。それが三倍。城の払いは、来年の春を待たずに底を突きます。……村々は、もっと早うございましょう」
「買わずに済ますことは」
ゲルト様が、分かりきったことを聞いた。ヨーゼフは首を振った。
「塩がなければ、肉も魚も冬を越せませぬ。塩の壺が空く年は、人が減る年でございます」
わたくしは、去年の秋に見た村の光景を思い出していた。豚を潰し、肉と塩を交互に重ねていた男たちの手。幼子までが真剣な目で覚えようとしていた、あの手つき。
あの樽が、来年は積めない。
「値切れんのか」
「専売にございます。競う相手のない商いに、値切るという言葉はございません」
ヨーゼフの声は、諦めではなかった。三年前から少しずつ段を高くしてきた数字を、この老人はずっと帳面で見つめてきたのだ。ついに来たか、という顔をしていた。
わたくしは、旦那様を見た。
寝台を出て、初めて執務の卓についた日だった。頬はまだ削げ、手首は細い。それでも、背筋は槍のようにまっすぐで、灰色の目は書状の一点を見据えていた。
その目に、わたくしは初めて「北の当主」を見た気がした。
あの日、石段の上で幽鬼のように立っていた人。三年、夜ごと薬湯だけで生き延びてきた人。その人が、いま、領地の生き死にを前に、逃げずに座っている。
「ヨーゼフ」
旦那様の声は低く、静かだった。
「城の蓄えを、村へ回す算段を立てろ。城は、削れるところから削る」
「はっ」
「ゲルト。王都へ人を出せ。ほかの塩商人が動けるかどうか探らせろ。……動けまい。だが、確かめる」
「はっ」
誰も、慌てていなかった。当主が慌てないからだ。
その落ち着きが、卓を囲む者の背骨を一本ずつ立て直していく。この人は、こういう人なのだと思った。自分の体は三年放っておいたくせに、領地のこととなると、決して匙を投げない。
「あの」
控えていた若い書記が、遠慮がちに声を上げた。
「湯霧の谷は、湯の湧く谷と聞きます。……湯には塩が混じっておると。谷の塩を分けてもらうことは」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
穢れの谷の名を、この場で出したことに対してだ。けれど旦那様が何も言わないので、皆、口をつぐんだ。
答えたのは、ゲルト様だった。
「谷の湯の塩は、苦うございます」
「苦い?」
「舌に残る苦さでございます。あれで肉を漬けると、腐ります。菜を漬けても、酸っぱくならずに、ぬめって駄目になる。……山の者が、里へ塩を買いに来る理由が、それでございますよ」
湯の塩は、苦うて、菜が腐る。
わたくしは、その言葉を胸の帳面に書きつけた。
苦い塩。使えない塩。谷が湯を抱えていながら、塩に飢えている理由。
前世の記憶の底で、何かが小さく光った気がした。苦い塩。海の水を煮詰めたあとに残る、あのにがいもの。あれは確か──。
けれど、その光は、すぐに書状の影に紛れて消えた。今は、そんなことを考えている場合ではない。
その夜、旦那様が言った。
「峠が開いた」
「え」
「昼に、報せが来た。晴れが続いて、雪が思いのほか早く締まったそうだ。……行け」
わたくしは、匙を置いた。
「旦那様。……このような時に」
「このような時、だからだ」
旦那様は、器の中の粥を見つめていた。
「塩は、王都が握っている。だが、この北には王都の知らんものがある。……おまえが確かめに行くのは、そういうものなのだろう」
声は静かだった。けれど、その静けさの底に確かな熱があった。
三倍の塩を、いま、どうにかできるわけではない。それでもこの方は、谷へ、わたくしを送り出そうとしている。北の外に頼らずに済む道が、どこかにあるはずだと。
「──行ってまいります」
わたくしは、深く頭を下げた。
出立の朝は、よく晴れた。
橇に荷を積む。大麦、蜂蜜、薬草、匙、そして表紙のない帳面。テアが襟元を直し、ハンナが「爺様に、これを」と乾かした香草を押しつけた。膳の帳面は、もうこの人の竈にある。城のことは、案じなくていい。
石段の上に、旦那様が立っていた。
初めてこの城に着いた日と、同じ場所だ。あの日と違うのは、この方の頬に血の色があること。そして、見送られているのがわたくしのほうだということ。
「無理を、するな」
同じ言葉だった。
「はい」
「……八日で、帰れ」
わたくしは頷いた。頷きながら、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
橇が動き出す。石段の上の姿が、遠ざかっていく。見えなくなるまで、その人は、そこに立っていた。
わたくしは、毛皮の襟に顔を埋めた。
──いけないわ。
胸の中で、自分を叱った。
あの方は、患者だ。三年、誰にも食べる姿を見せられずにいた人が、ようやく食卓へ戻ってきたばかりの人。
前世の病棟で、何度も見た。弱った人の心は、支えてくれる相手に、いとも簡単に傾く。それを恋だと呼ぶのはたやすい。けれど、たいていは、回復の途中に咲く花のようなものだ。
だから、預かる側が、それに乗ってはいけない。
匙を持つ者が、いちばん守らなければならない一線が、そこにある。
わたくしは、白い息を吐いた。
橇は、山へ向かって進んでいく。
峠の向こうに、麹の生きた蔵が、待っている。
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