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第三十五話 うまい

 その朝、わたくしは夜明け前に厨房へ降りた。


 ハンナが、もう竈の前にいた。


「奥方様。……お任せしてはくださいませんか」


 言われて、わたくしは首を振った。


「いいえ。今日は、わたくしが」


 ハンナは何も言わず、いちばん良い鍋を火にかけて脇へ退いた。


 一晩水を吸った大麦を、たっぷりの湯で炊く。粒が踊らない火加減で。蟹の吹くような細かい泡が鍋の縁に並んでいる。殻がほどけ、芯が崩れ、白く濁ってとろみが立つ。冬のはじめとは違って、今日は漉さない。粒の形が消えるまで炊いて、その柔らかさごと器へ。


 乳を、ほんの少し。蜂蜜を、指ひと差しぶん。


 匙ですくうと、とろりと落ちて跡がゆっくり消えていく。湯気は、ふうふうしなくていい高さ。まるい甘い匂いが立ちのぼった。


 ひと冬の階段を、もう一度登りきった一杯だった。


 厨房の誰も口をきかなかった。ハンナも、リタも、テアも、竈の前のわたくしの手元をただ見ていた。


「──行ってまいります」


 誰にともなく言って、わたくしは盆を持ち上げた。


 背後で、前掛けを握りしめる音がした。


 旦那様は寝台に半身を起こして待っていた。


 窓の外はまだ薄暗い。屋根から落ちる雪の音が、遠くで鳴っている。


 小卓に盆を置く。毒見の匙は、もうない。検分の布だけが、いつもの場所にある。看病の三日もその後の日々も、ゲルト様は一度として手順を崩さなかった。


 旦那様が、器を取った。


 節の浮いた指が、白い器を包む。以前より少しだけ肉のついた指だった。持ち上げ、口へ運ぶ手前で一度止まる。


 匂いを、確かめている。


 わたくしは、息を止めた。


 やがて、器が傾いた。


 ひと口。


 喉が、動いた。


 沈黙が落ちた。


 旦那様は器を持ったまま動かない。目は、器の中の白いものに落ちている。まばたきをしない。呼吸も、していないように見えた。


 薪が、ちり、と鳴った。


 どれほど経ったのか。あの夜より、この沈黙は長かった。長くて、深かった。


 あのときこの方が確かめていたのは、温かさだった。三年ぶりに体を通っていく熱の道筋を、全部使って辿っていた。


 けれど今日のこれは、違う。


 旦那様は、器の中を見ていない。もっと遠くを、あるいはもっと近くを、見ている。自分の舌の上を。そこで何かが起きたことを、信じられずにいる人の目だ。


 わたくしは動けなかった。この沈黙を、わたくしは知っている。あの夜、この方が「温かい」と言う前の、あの沈黙だ。


 けれど、あのときとは何かが違う。


 旦那様の指が、器の縁でかすかに震えていた。


 そして。


「…………うまい」


 時が、止まった。


 器を持つ手が震えている。震えは指から腕へ、腕から肩へ広がって、やがて旦那様は顔を背けた。


 わたくしのほうを見ないように。窓のほうへ。薄暗い夜明けのほうへ。


 その肩が、大きく震えていた。


「……うまい」


 もう一度。


 誰に言うでもなく、確かめるようにその言葉を口の中で転がして。それから、旦那様は、ひどく困惑した声で続けた。


「……味は、せんのだ。今も」


 背を向けたままの、割れた声だった。


「甘くもない。しょっぱくもない。何も、分からん。……それなのに」


 言葉が、途切れる。


「それなのに、うまい」


 わたくしは匙を持つ手を、胸の前で握りしめた。


 甘みは、まだ届いていない。三年前に焼かれたものは焼かれたきりだ。医者の言ったとおり、この方の舌にはいまも何も届いていない。


 それでも、この方は、うまいと言った。


 温かさ。麦と蜂蜜のまるい匂い。喉を通っていくとろみの心地。ひと冬ぶんの器の記憶。夜明け前の厨房で、誰かが自分のために鍋を見ていたこと。その誰かが、いま目の前に立っていること。


 ――うまさというものは、舌だけが作るのではないのだ。


 わたくしは、それを前世でも知っていたはずだった。食欲のない患者さんが、家族の見舞いの日にだけ粥を全部食べたこと。何度も見て、頭では分かっていた。


 いま、それを、味のない舌の人が教えてくれている。


 わたくしは、何も言わなかった。


 言ってはいけない場面が、この世にはある。


 ただ、震える肩から目を逸らして、空いた手でそっと涙を拭った。拭っても拭っても、追いつかなかった。


 旦那様は二口目を飲んだ。三口目を。それから、器の底が天井を向くまで。


 空になった器を両手で包んで、しばらく動かなかった。


 その手がゆっくりと下ろされる。匙が、布の上へ。柄を揃えて、まっすぐに。


 ようやく、旦那様が口を開いた。掠れた声は、まだ落ち着いていなかった。


「……もう一杯、いただけるか」


 わたくしは盆を抱えて立ち上がった。


「はい。……はい、旦那様」


 声が、みっともなく震えた。構うものか。


 廊下へ出て、扉を閉めて、二歩。


 そこで、わたくしは立ち止まった。


 壁にもたれて、ハンナが立っていた。


 いつからいたのだろう。前掛けを口に押し当て、肩を震わせて、声を殺して泣いていた。四十年、この城の竈を守ってきた人が。三年、若様に一度も食べてもらえなかった人が。


 わたくしを見ると、ハンナは前掛けを外してぐいと目を拭った。


 そして、まっすぐにわたくしを見た。


「……奥方様」


 掠れた声だった。


「あたしはこの歳まで、竈のことだけ考えて生きてまいりました。奥方様のなさることは、あたしには分からんことばかりでございます」


「ハンナ」


「けれど、もう」


 節くれだった手が、前掛けの上で固く握られた。


「もう、疑いません。あなた様が正しいと言われるなら、あたしは、それに従います。……どこまでも」


「若様が、うまいと。……あたしはもう、それで、十分でございます。奥方様が白花だ何だと言われるなら、あたしはもう、口出しはいたしません。あなた様のなさることに、間違いはございません」


 わたくしは、ゆっくりと首を振った。


「ハンナ。それは違うわ」


 ハンナが、顔を上げる。


「白花のことは、いいの。……あなたが怖いと思うものを、無理に飲み込む必要はないの。今日のことと、あれとは、別のことよ」


 ハンナは、しばらくわたくしを見つめていた。


 それから、深く、深く頭を下げた。


 それは、四十年の職人が差し出せるいちばん重い言葉だった。そして、その重い言葉を、わたくしは受け取らないことにした。人の恐れは、感謝で買えるものではない。買ってはいけないものだ。


 わたくしは、深く頭を下げた。


 厨房へ戻ると、竈にはもう、次の湯が沸いていた。


 朝日が、窓から差し込んでいた。


 ──そしてその日の昼、一通の書状が、王都から届いた。


 ザルツ商会の封蝋。塩の卸値を、来月より三倍に引き上げる。北部への供給は、その値でのみ行う、と。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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