第三十四話 もう一度、いちばん下から
旦那様の階段は、いちばん下まで崩れていた。
三日の高熱と、その前の三日の不眠。ひと冬かけて登ってきた段を、体はきれいに忘れていた。目を覚ました翌朝、蜜湯をひと口飲んで旦那様は顔を背けた。
「……もう、いい」
二口目が、入らないのだ。
わたくしは何も言わずに器を下げた。責めない。急かさない。無理をさせれば戻す。戻せば、体はもっと弱る。
弱った体は、階段を一段ずつしか登れない。
この冬のはじめにこの方へ届けた最初の一杯より、さらに手前から始めるしかなかった。
その日は白湯だけで暮れた。生姜を薄く削って浮かべ、蜂蜜をほんの少し。それを昼と夜に、匙で少しずつ。
冬のはじめの重湯より、さらに手前。器の中身は、ほとんど湯だ。これを一杯と数えていいものか、自分でも迷う。それでも帳面には、きちんと書きつけた。白湯、二杯。戻さず。
記録しておけば、明日の一杯の根拠になる。
旦那様は、不機嫌だった。
自分の体が言うことを聞かないこと。それを妻に見られていること。つい数日前まで馬に乗って雪の村を回っていた男が、匙一杯の白湯にてこずっていること。灰色の目に浮かぶ苛立ちは、わたくしにではなくご自分に向けられていた。
「情けないと、思っていらっしゃる」
「……当たり前だ」
「あら。わたくしは、そうは思いませんけれど」
わたくしは器を拭きながら言った。
「三日、眠らずに領民の家を回った方が四日目に熱を出す。当たり前のことでございましょう。当たり前でないのは、その三日のほうですわ」
旦那様は、返事をしなかった。
けれど、次の匙は、口を開けた。
ハンナが、朝ごとに帳面を持って様子を聞きに来る。八日分の膳の帳面は、いまや看病の頁のほうが厚くなっていた。
どこまで戻ったか。何を受けつけたか。戻さなかったか。ハンナはそれを几帳面に書きつけ、次の膳を組み立てる。この人はもう、わたくしの指図を待っていない。帳面と、自分の勘で、階段を組める。
二日目。白湯に、挽き麦のとろみを少しだけ。
三日目。うすい重湯。冬のはじめの、あの器の中身。
運びながら、わたくしは少し可笑しくなっていた。同じ器、同じ薄さ、同じ温度。違うのは、扉の前ではなく寝台の脇で渡していることだ。
「懐かしい味でございましょう」
「……薄い」
「ええ、薄うございます。あの頃と同じですもの」
「あの頃より、薄い気がする」
「まあ。舌が肥えられましたのね」
旦那様が鼻を鳴らした。それが笑ったのだと気づくまで、少しかかった。
この方がわたくしの前で笑うようなものを漏らしたのは、初めてだった。
同じ日の夕方。
わたくしが器を運んでくると、旦那様は寝台に半身を起こして待っていた。
わたくしが匙を取ろうとすると、その手が止められた。
「先に、食え」
「……はい?」
「おまえの膳を、ここへ運ばせろ。俺の前で食え」
「旦那様。わたくしは、給仕を」
「テア」
旦那様はわたくしの言葉を無視して、扉の外へ声をかけた。返事は恐ろしく早かった。控えていたのだ。この二日、テアは扉の外に詰めていた。旦那様の言いつけで、わたくしを見張るために。
膳が運ばれてきた。麦のとろみ粥と、蕪の軟菜。ハンナがわたくしのために作ったものだ。
寝台の脇の小卓で、わたくしは食べた。
匙を口に運ぶわたくしを、旦那様はじっと見ていた。三日前と同じように。ただ、今日は目を逸らさない。逸らさずに、見ている。
「……妙な気分だ」
やがて、旦那様が言った。
「人が食うのを見るのが、これほど」
言葉を探して、見つからなかったらしい。
わたくしは匙を止めた。
この方は、いま何を見ているのだろう。三年、人の食う姿を見ることを避けてきた人が。自分だけが食べられない食卓を憎んで、恐れて、逃げてきた人が。
その人が、わたくしの匙の運びを目で追っている。
「……厨房の連中が、甘い甘いと騒いでいたな」
ふいに、旦那様が言った。
「雪の下の蕪だ。……あれを、俺は分からなかった」
「ええ」
「今も、分からん」
旦那様は、天井を見上げた。
「だが、おまえの食う顔で、少し分かる」
わたくしは匙を持ったまま、動けなくなった。
この方は、味の代わりに人の顔を見ているのだ。
自分の舌に届かないものを、食べる人の表情で受け取っている。三年、逃げてきた食卓を、いま、そういうやり方で取り戻そうとしている。
「旦那様」
声が、少し震えた。
「明日、粥を炊いてもよろしいですか。とろみをつけて、あたたかいのを」
旦那様は天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「……ああ」
窓の外で、屋根の雪がまた重たい音を立てて落ちた。
春が、すぐそこまで来ていた。
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