第七十四話 伏せない目
証人尋問の朝、法廷の石は前より冷たい匂いがした。
最初に立ったのは、証人ではなかった。教会側の席から、あの目の動かない人が進み出て、検めの報告を読み上げた。
「監察の記録を申し上げる。被告の手は、労役の手である。持ち込みの品は、塩、油、麦、乾酪、干した山菜、麹なる種、ならびに書面に言う、甘き腐り水の類──」
腐り水。書面の語が、法廷の天井に届く声で初めて公の場に読み上げられた。傍聴の席が、さざめいた。
「──被告は当該の品につき、腐りにあらず醸しである旨を申し立て、腐りと醸しの見分けにつき、鼻と目と手による判別の法を陳述した。記録は以上。教会の見立てを申し上げる。……穢れの徴、認めず」
読み上げの声は、抑揚を欠いたまま正確だった。正確さは、ときにどんな弁護よりも強い。
さざめきが、質を変えた。
代言人が素早く立った。
「監察殿。しかしながら巷間、被告を指して北の魔女と呼ぶ声は日々高く──」
「巷の声は、証拠ではない」
審理官の声が初めて温度を持った。
「代言人は慎まれよ。……監察殿に問う。書面の語、腐り水につき、教会の見立てや如何」
アルノルト様は束の間、書面から目を上げた。
「書面の語を法廷の語となすかは、法廷が決められよ。教会は、徴を認めなかった。以上でございます」
それだけ言って、あの人は席へ戻った。目は、一度もわたくしを見なかった。見なくていい。あの報告の一語一語が、検めの間のわたくしの言葉を削らずにそのまま運んでいた。
「証人。グランツ伯」
父が、入ってきた。
痩せていた。絹の上着は昔のままの仕立てで、それがいまは余っていた。文の字が細くなっていたのと、同じだけ痩せていた。父は証言台に立ち、宣誓をし、まっすぐに審理官だけを見た。傍聴も、代言人も、わたくしも、視界に入れない。役目の顔だった。あの夜会の父は目を伏せて逃げた。今日の父は、目の置き場をひとつに決めて、そこから動かさないことで立っていた。
「借財について、問う」
「手前の借財は、三年前に始まりましてございます。貸し手はリンデン商会。両替の店でございます。証文の名義は番頭のヴェルナーとなっておりましたが、金はリンデンの金。そして利の取り決めも証文の書き換えも、リンデンよりさらに後ろの筋の指図で動いておりました。……その筋の名は、手前には最後まで知らされておりません」
石の間が、静かになった。名前で出来ている証言だった。傍聴席のよく笑う顔を見る余裕は、なかった。あの顔が今日の名前をどう聞いたかは、あとで頁に書く。
「利は法外でございました。しかし手前が今日申し上げたいのは、利の高さではございません。──証文の書き換えのたび、条件がひとつ、付いてまいりました。娘の縁組の件につき、異を申さぬこと。娘の名誉の件につき、口を開かぬこと」
父は、そこで初めて声を詰まらせた。詰まらせて、飲み込んで、続けた。
「手前は、それを飲みました。三年、飲み続けました。臆病だったからでございます。銭で口を縛られたのではございません。銭を口実に、臆病でいることを許してもらっていたのでございます」
わたくしは駒の顔の内側で、息を止めていた。
借財。無心の手紙。夜会の伏せられた目。三年のあいだ、わたくしが「弱い父」として頁に綴じてきたものが、証言台の上で別の形に組み直されていく。弱かったのは本当だ。けれど弱さには、指図の手が付いていた。
「次に、原審の証拠とされた文について、証人に問う」
審理官が促すと、父は懐から紐で綴じた古い帳面を取り出した。
「娘は、書いたものの控えを残す子でございました。幼い頃、手前がそう躾けましてございます。……商家の出の手前の、唯一の家訓のようなものでございました。これは娘の文机に残っていた、下書きの綴りでございます」
書記が受け取り、審理官が検分し、該当の頁が開かれた。
原審で読み上げられた、あの切り貼りの文。その元の姿が、下書きの字で前も後ろも欠けずにそこにあった。読み上げられていく。刈り取られた前置きも、継ぎ捨てられた結びも、全部。
文の意味があるべき形に戻っていく。わたくしの言葉が、わたくしの言葉に帰ってくる。
代言人が異議を唱え、下書きは本文と同一の証拠たり得ないと言い、審理官は「同一性の検分の上、受理する」とだけ答えた。槌の音がした。
その音の中で、父が証言台の上で向きを変えた。
審理官から、わたくしへ。
目が、合った。
伏せられなかった。あの夜会からこちら、わたくしの記憶の中でずっと伏せられ続けてきた目が、法廷の光の下でまっすぐにこちらを見ていた。何も言わなかった。口の形も動かなかった。ただ、見て、伏せなかった。それだけのことを、この人は三年ぶんの重さでやっていた。
文の「二度と」は、これだったのだ。
言葉ではなく、目の置き場の話だったのだ。
わたくしは駒の顔を保った。保ちながら、膝の上で指を強く組んだ。組んだ指の内側だけで、わたくしは頷いた。届いたかどうかは、分からない。届いていてほしいと、思った。
「証人尋問、一の者、以上。──次回、二の者。侍女テアの尋問を行う」
槌が鳴り、父は一礼して係の者に導かれて出ていった。出ていく背中は、入ってきたときほどには、薄く見えなかった。
退廷の廊下で、教会側の列とすれ違った。
あの目の動かない人が、歩みを緩めもせず、視線もくれず、すれ違いざまにひとことだけ落としていった。
「……樽は、保った」
それだけだった。振り向いたときには、黒い法衣の背中は廊下の先だった。
樽は、保った。手当てが、間に合った。誰の指図かを、あの人はやはり言わなかった。言わないまま、わたくしにだけ聞こえる声で。
帰りの馬車の窓の外を、夏の夕の王都が流れていく。来た日には敵の色しか見えなかった街に、今日はひとつだけ、別の色が増えた。
わたくしは窓の外を見ながら、頭の帳簿の頁をめくった。
アルノルト様の頁に、初めての色を書く。敵の色ではない。味方の色でもない。──定規の色。そして、定規のくせに、ほんの少しだけ、人の温度。
父の頁は、めくらなかった。あの頁は、帳簿ではないところに綴じてある。
次は、テアの番だった。あの子の見た頁が、石の間で開かれる。開く手伝いなら、もう済ませてある。あとは、信じて待つだけなのだろう。
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