第三十二話 いちばん長い夜
熱は、その夜のうちに上がった。
旦那様の額は火のように熱いのに、指先だけが氷のままだった。荒い息がときどき止まりそうになる。そのたびにわたくしは、寝台の脇で息を詰めた。
三年ぶんの疲れが、いま一度に噴き出している。そう見えた。
医者は言った。命に関わる病ではない、と。けれど命に関わらない病で人が死ぬのを、わたくしは前世で何度も見た。食べられず、飲めず、体の火が消えていく。病名ではなく、消耗が人を連れていくのだ。
だから、消耗を止める。それだけを考えた。
「テア。挽いた大麦を湯で溶いてちょうだい。とろみが匙から糸を引かないくらい。ぬるく」
「はい」
「それから、生姜を。薄く削って、蜂蜜と一緒に湯へ」
挽き麦でとろみをつけた、生姜の蜜湯。飲み下す力の落ちた喉には、さらさらの水より、とろみのあるもののほうが安全に通る。前世の病棟で覚えた工夫だ。
厨房から運ばれてきた器を、わたくしは寝台の脇の小卓に置いた。
旦那様の唇に、匙を近づける。
開かない。
意識のない人に無理に流し込んではいけない。喉に入って、肺を痛める。前世の病棟でいちばん恐ろしかったのは、栄養失調ではなくそれだった。
わたくしは匙を置き、旦那様の上体をそっと起こした。
重かった。骨と筋ばかりのはずの体が、こんなにも重い。ゲルト様が扉の外に控えているけれど、呼ばなかった。呼べば、この方の弱った姿をまた一人に見せることになる。
枕を積んで背をもたせかけ、頭を少し前へ傾ける。
それから匙のふちを、唇の下にそっと当てた。
一滴。
ぬるい蜜湯が唇を濡らす。舌の先に触れる。
喉が、動いた。
わたくしは、息を吐いた。
一滴。また、一滴。
急がない。急がない。飲み込むのを確かめてから、次の一滴。喉が動かなければ待つ。待って、また一滴。
匙を運ぶ手が、いつのまにか祖母の手つきになっていた。
──ロッテ。人の口にものを入れるときはな、自分が飲み込むつもりでやるんだよ。
蔵の隅で寝込んだ蔵人に粥を食べさせていた祖母。あの人の背中を、わたくしは覚えている。
窓の外が、白みはじめた。
器がひとつ、空になった。それだけのことに朝までかかった。
昼、熱は下がらなかった。
わたくしは蜜湯を炊き直し、また一滴ずつ運んだ。汗を拭き、着替えさせ、水を含ませ、また匙を取る。ゲルト様が交代を申し出て、ハンナが休むように言った。テアは泣きそうな顔で、白湯の椀をわたくしの手に握らせた。
わたくしは、首を振り続けた。
厨房は、止まらなかった。ハンナは八日分の帳面を開いたまま、そこに書かれていない看病の膳を作り続けた。蜜湯の濃さを尋ねに来て、答えを帳面の余白に書き足していく。
「奥方様の書かれた頁の、いちばん最初でございましょう。……重湯より、まだ手前の」
その通りだった。この方は、階段を、いちばん下まで転がり落ちてしまったのだ。だからもう一度、いちばん下から。
匙の運びには呼吸がある。この方の喉が動く間合いを、わたくしの手はもう覚えている。覚えた手が、いまこの部屋にはひとつしかない。
二日目の夜。
旦那様が、うわ言を言った。
「……止めろ」
低い、掠れた声だった。
「その、杯を」
わたくしは、匙を止めた。
「銀の……杯だ。……飲むな。飲むな、ゲルト」
扉の外で、ゲルト様が息を呑む気配がした。
部屋の空気が、凍った。
三年前。この方が何を飲まされたのか。医者の言った、内に居座る毒。
わたくしは旦那様の手を握った。
夢の中で、この方はまだあの宴にいる。三年、毎晩そこへ戻り続けていたのかもしれない。眠れなかったのは、疲れのせいだけではなかったのかもしれない。
「大丈夫でございますよ」
わたくしは、うわ言に答えた。
「ここには、銀の杯はございません。……ここにあるのは、麦と乳と、蜂蜜だけ」
握った手に、ほんのわずかな力が戻った気がした。
三日目。
熱が、少し引いた。
旦那様の額に手を当てて、わたくしはへなへなとその場に座り込んだ。座り込んでから、自分の膝が笑っているのに気づいた。
立ち上がろうとして、視界が黒く滲んだ。
──ああ、いけない。
この三日、わたくしは何を食べただろう。味見の匙。テアの押しつけた白湯。それだけだ。
匙を人に運ぶ手は、自分の口には運ばない。前世の病棟であれほど同僚に説教していたことを、わたくしは自分でやっている。
可笑しくて、笑いが漏れた。
笑った拍子に、また視界が傾いだ。
寝台のふちを掴んで、なんとか堪える。
──もう少し。
この方が、目を開けるまで。
器を、もうひとつだけ、空にするまで。
窓の外で、雪の落ちる重たい音がした。屋根から滑った雪が庭に崩れる音だ。
嵐のあとの晴れ間が、そこにあった。
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