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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第三十一話 冬は死ぬときに暴れる

 嵐は、出立の前夜に来た。


 夜半、風の音で目が覚めた。窓枠が鳴るどころではない。城全体が巨大な手に掴まれて揺すられているようだった。硝子越しの闇に、雪が横ざまに走っている。


 朝になっても、やまなかった。


 昼になっても。


 三日、吹き続けた。


 城の外は白一色で、中庭に出れば十歩先も見えない。谷はおろか麓の村へさえ、人はやれなかった。ゲルト様の顔つきが日ごとに険しくなっていく。


「峠は、埋まりましてございます」


 四日目の朝、ようやく静まった空の下で、偵察から戻った兵がそう告げた。


「解けかけた雪の上に、新しい雪が乗りました。……いちばん崩れやすい形でございます。橇はもとより、人ひとり通せませぬ」


 わたくしは荷造りの済んだ木箱の前に、しばらく立っていた。


 匙と、大麦と、蜂蜜の壺と、覚え書きの帳面。


 六日後に発つはずだった。その朝は、白い唸りの中で過ぎていった。


 テアが、そっと木箱の蓋を閉めようとして、手を止めた。閉めてしまえば、この八日の支度が終わってしまう。そう思ったのだろう。わたくしが頷いてやると、テアは唇を噛んで、蓋を下ろした。


「……どのくらい、待てば」


「雪が落ち着くまで、半月は」


 半月。


 ヨルンは乳粥まで進んだ。半身を起こせるようになった。けれどそれは階段の二段目でしかない。二段目で足を止めた老人が半月のあいだに、また転がり落ちないという保証はどこにもない。


 冬は死ぬときに暴れる、と老兵は言った。


 まったく、そのとおりだ。この冬は去り際に、わたくしの手から匙を叩き落としていった。


 ──その夜のことだった。


 旦那様が、倒れた。


 知らせに走ってきたリタの顔は蝋のように白かった。廊下を駆けて寝室の扉を開けたとき、ゲルト様が旦那様を寝台へ運んでいるところだった。


「閣下は、この三日、お休みになっておりませぬ」


 ゲルト様の声は、悔いに掠れていた。


 雪で潰れた家。行方の知れない羊飼い。崩れた橋。嵐のあいだじゅう、北の当主のもとへは次から次へと悪い報せが運ばれ、そのたびにあの方は指図を出し、兵を動かし、自ら見回りにまで出ていたのだという。


「それがしが、お止めすべきでございました」


 三日。ほとんど眠らずに。


 寝台の上で、旦那様は荒い息をしていた。額に汗が浮き、頬は削げ、唇は白い。手を握ると氷のように冷たかった。


「医者を」


「もう、呼びに」


 村の医者が、雪をかき分けて来たのは、明け方近くだった。


 白髪の老医は旦那様の脈を取り、瞼を上げ、腹に手を当て、それから長いこと黙っていた。


「……熱は、疲れによるものでございましょう。命に関わる病ではございません」


 わたくしは、思わず息を吐いた。


「ですが」


 医者は、続けた。


「三年前の毒が、まだこの方の内に居座っております。焼かれたものは焼かれたきりでございますよ、奥方様」


「焼かれた、とは」


「魔脈でございます。人の身の内を巡る、力の道筋のようなもので」


 医者は痩せた指で、自分の胸から腹のあたりをゆっくりとなぞってみせた。


「傷なら術師が塞ぎます。折れた骨も繋ぎます。ですが、焼かれた魔脈ばかりは術も薬も届かぬのです。三年前、王都から名高い治癒の術師が三人まいりました。三人とも匙を投げましてございます。……治す道理が、この世にないのだと」


 部屋が、しんとした。


 わたくしは寝台の上の白い顔を見ていた。


 治す道理が、この世にない。


 だから三年、この方は薬湯だけで夜を凌いできた。だから医者は匙を投げた。だから、この方は「長くは生きん」と天気の話のように言ったのだ。


 術も薬も届かない場所。


 ──けれど、そこへ、匙は届いた。


 重湯が届いた。乳粥が届いた。この方は眠るようになり、食堂に降りるようになり、歩き方が変わった。術師にできなかったことを、大麦と乳と蜂蜜が少しずつ、していた。


 わたくしは、老医に尋ねた。


「先生。焼かれた道は、二度と通じませんか」


 老医は、驚いたようにわたくしを見た。


「……道は、通じますまい。ですが」


 しわだらけの目が、わずかに細くなった。


「奥方様が来られてから、この方は明らかに違う。道が塞がっておっても、体そのものが強うなれば人は生きられます。……三年、術も薬も届きませなんだ。この幾月かで届いたのは、匙でございました」


 医者はそう言って頭を下げ、帰っていった。


 部屋には、わたくしと、荒い息をする旦那様だけが残された。


 わたくしは、寝台の脇に膝をついた。


 膝が、思ったより重かった。この三日、嵐の指図に走り回る城の中で、わたくしもろくに寝ていない。テアが心配していた通りだ。けれど、いま、そんなことはどうでもよかった。


 半月、峠は開かない。谷へは行けない。行けないのなら──ここにいる。


 ここに、わたくしの匙が要る人が、いる。


「テア。厨房へ。……大麦を、いちばん細かく挽いて」


 わたくしは、袖をまくった。


 嵐は去った。けれど、いちばん長い夜はこれから始まろうとしていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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