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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第三十話 膳を託す

 出立を二日後に控えた朝、わたくしは厨房の卓に、一冊の帳面を置いた。


 新しく綴じたものだった。表紙には、こう書いてある。


 ──旦那様の、八日分の膳。


「ハンナ。……お願いがあるの」


 ハンナが手を止めた。竈の前の下女たちも、リタも、皆こちらを見ている。


「わたくしが谷にいるあいだ、旦那様のお食事をあなたにお任せしたいの」


 厨房が、しんと静まった。


 ハンナの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「……なりません」


「ハンナ」


「なりません、奥方様。あたしには、できません」


 節くれだった手が、前掛けを握りしめていた。


「三年でございますよ。三年、あたしの作ったものを若様はひと口も召し上がりませんでした。厨房を出た膳がそっくり返ってくるのを、あたしは三年見てまいりました。……あたしの手では駄目なんでございます。奥方様の手でなくては」


 その声に、この人の三年が全部乗っていた。


 毎朝、届かないと知りながら膳を作り続けた三年。若様が食べないのは自分の料理が悪いからだと、心のどこかで責め続けた三年。


 わたくしは帳面をハンナの前へ押しやった。


「開いてみて」


 ハンナは、震える手で表紙をめくった。


 一日目。朝、うすい乳粥。指ひと差しぶんの蜂蜜。人肌より、ほんの少し温かく。昼、蕪のすり流し。塩は控えめに、香草はひとつまみ、湯気の上で揉んで散らす。夜、麦のとろみ粥と蒸した蕪。匙で崩れる柔らかさ。


 二日目。三日目。八日目まで。


 器の温度。とろみの濃さ。匙の運び。旦那様が好まれる湯気の立ち方。食が進まない日の代わりの一品。戻しそうな日の見分け方と、そのときの引き返し方。


 ぜんぶ、書いてあった。


「これは……」


「わたくしの手が作っているんじゃないの、ハンナ」


 わたくしは、静かに言った。


「作っているのは、この帳面よ。弱った体に、何を、どの柔らかさで、どの温度で。順番と加減。それだけ。魔法でも、まじないでもないの。……だから、あなたの手でも作れるわ。あなたの手のほうが、わたくしよりずっと確かだもの」


 ハンナは帳面の頁を見つめたまま、動かなかった。


 やがて、ぽたりと一滴が紙に落ちた。


「……蟹の泡でございますか」


 掠れた声だった。震える指が火加減の頁を辿っている。


「奥方様が、あたしに教えてくださった、あの」


「ええ。あなたが教えてくれた麦の浸け時間も書いてあるわ。北の麦は皮が厚いって。……この帳面の半分は、ハンナ、あなたの知恵よ」


 ハンナは、前掛けに顔を埋めた。


 しばらく誰も何も言わなかった。竈の火が、ぱちりと爆ぜた。


 顔を上げたとき、四十年の料理長の目は赤かった。赤かったけれど、まっすぐだった。


「……承知いたしました」


「ハンナ」


「若様の膳、この手でお作りいたします。……三年ぶりに」


 そう言ってハンナは帳面を両手で持ち上げ、胸に抱いた。あの日、空になった器を運んだときと同じ、尊いものを扱う手つきだった。


 厨房の隅で、リタがそっと涙を拭っていた。この城に来た日、わたくしを遠巻きに眺めていた娘だ。


 テアには、別の役目を頼んだ。


「薬湯の見張り番よ。あなたが毎晩、煎じ加減を確かめて。それから、この帳面のとおりに膳が出ているか見ていてちょうだい」


「わたし、が……お嬢様の代わりに?」


「代わりじゃないわ。あなたが、わたくしの段取りを守るの。留守を預かるって、そういうことよ」


 テアはしばらく口をぱくぱくさせて、それから深々と頭を下げた。侍女の身では峠を越えられないという悔しさが、その背中から抜けていくのが見えた。


 夕方、ハンナは帳面を卓に立てかけて、蕪を煮ていた。


 鍋を覗き込む横顔は、恐ろしいほど真剣だった。四十年の勘を持つ人が、書かれたとおりの温度を、指の腹で何度も確かめている。勘だけでも、書きつけだけでも駄目なのだ。合わさって初めて、膳になる。


 その晩の膳は、ハンナが作った。


 わたくしは給仕にも立たなかった。厨房の陰から、リタが器を運んでいくのを見送っただけだ。


 長い時間が、過ぎた気がした。


 戻ってきたリタが、空の器を掲げてみせた。


 厨房が、わっと沸いた。ハンナは竈にしがみつくようにして、声も出さずに泣いていた。


 沸き立つ声の中で、わたくしはひとつのことに気づいていた。


 今夜の膳には、先の一匙がなかった。


 ゲルト様の検分は、いつもどおり通した。けれど毒見をする者は、今夜、誰もいなかったのだ。あの方はそれを見て、何も言わずに匙を取り、空にして返した。


 五晩目の夜に始めたあの所作を、わたくしはもう、しなくてよいらしい。


 リタが不思議そうにこちらを見た。わたくしは首を振って、笑った。泣いている人がもう一人増えたら、この厨房は収拾がつかなくなる。


 わたくしはそっと厨房を出た。ここから先は、この人たちの時間だ。


 ──理屈は、届く。手が変わっても。


 それを確かめられたことが、明日の峠よりずっと心強かった。


 部屋へ戻ると、テアが湯を運んできて、わたくしの足元に置いた。


「お嬢様も、召し上がってください。ハンナさんが、お嬢様のぶんも取り分けてありますって」


 わたくしは笑って頷き、けれど帳面の続きを書くうちに、湯もすっかり冷ましてしまった。明日の荷、明後日の出立。頭の中の帳簿は、いつまでも閉じてくれない。


 その夜、風の音が強くなった。


 湿った、重たい風だった。窓枠が、ひと晩じゅう、鳴り続けていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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