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第二十九話 出立の日を決める

 峠が開く。


 その報せは、雪解けの水と一緒に、城へ流れ込んできた。


 偵察の兵が戻り、ゲルト様が地図を広げ、旦那様が短く頷いた。橇なら六日後と決まった。谷まで一日半、滞在は五日、帰りに一日半。都合八日の旅だ。


 支度の日々が始まると、城じゅうが妙に浮き立った。


 厨房では、ハンナが荷の食糧を仕切った。日持ちのする乾パンと塩肉のほかに、大麦の袋がふたつ。それに──ハンナは何も言わずに蜂蜜の壺を荷へ加えた。城の蓄えの、いちばん上等なものを。


「ハンナ。これは、貴重な」


「病人が使うものでございましょう」


 ぶっきらぼうな声で、ハンナは背を向けた。


「谷の、爺様とやらが。……重湯に垂らすのだと、奥方様が紙に書いておられました。ならば要るものでございます」


 わたくしは荷の底の壺を、そっと押さえた。


 病人。ハンナはヨルンを、そう呼んだ。穢れの民でも山者でもなく。ただの、食べられずにいる病人として。


 この人の中で、何かが確かに動いている。名前をつけずに、そっとしておこう。


 テアは張り切って、わたくしの旅装を仕立て直した。防寒の裏地を厚くし、袖口を絞り、動きやすいようにと丈も詰めた。侍女の身では峠を越える供に加われない。その悔しさを全部、針目に込めている顔だった。


「お嬢様。お約束してください。ひと口でも、ご自分でも召し上がると」


「あら。わたくし、いつも食べているわよ」


「嘘ですね。この頃、味見の匙だけで済ませていらっしゃるでしょう」


 図星だった。テアの目は、この頃、恐ろしいほど利く。


 ゲルト様は兵を選び、橇を検め、峠の雪の具合を日に二度、確かめに人をやった。カイからの遣いも来た。ヨルンは重湯を戻さなくなった。うすい乳粥まで進んで、今朝は寝床から半身を起こしたという。


 その報せを聞いたとき、わたくしは思わず厨房の卓に手をついた。


 届いたのだ。


 山ひとつ越えたところへ、紙一枚と大麦の袋だけで階段が届いた。


 その夜、カイ自身が城へ来た。今度は峠を跳ぶのではなく、解けかけた道を、堂々と歩いて。


「爺様が、奥方様に会いたいと言ってます」


 少年の頬には、あの日にはなかった血の色が差していた。


「蔵も、見せるって。……爺様が、そう言うんです。白花を、他所の人に見せるなんて、いままで一度もなかったのに」


 わたくしは、その言葉を胸の底へ、そっとしまった。


「奥方様」


 ゲルト様が、少し困った顔で言った。


「泣いておられます」


「あら。……ほんとうだわ」


 わたくしは前掛けで目を拭って笑った。ハンナが黙って白湯を淹れてくれた。リタが鼻をすすっていた。


 夜、寝る前にもう一度荷を検めた。


 薬草の袋。大麦。蜂蜜。それから、覚え書きの帳面。谷の知恵のための、表紙に何も書かない帳面だ。これに、白花のことを書き足せる日が来る。そう思うだけで、指先が熱くなった。


 旅の荷は軽くていい。持ち帰るもののほうが、きっと重い。


 その夜、旦那様は珍しく、食後も卓を立たなかった。


「谷の話を、していけ」


「はい?」


「おまえが行って、何をするつもりか。……聞いておきたい」


 わたくしは向かいに座り直した。旦那様がわたくしの仕事について問うのは、初めてのことだった。


 だから話した。ヨルンの容態のこと。重湯から乳粥へ、次はすり流しへと進める階段のこと。それから、蔵を見せてもらいたいこと。白花のこと。谷の民が六十年、何を守ってきたのかを、この目で確かめたいこと。


 旦那様は、口を挟まずに聞いていた。


 話し終えて、わたくしは付け加えた。


「それに、お礼を申し上げたいのです」


「礼?」


「谷の方々に。……この城のために」


 言葉を選んだつもりだった。処方の紙のことも、ハンナが気づいたことも、口には出さなかった。


 けれど旦那様はしばらくわたくしを見つめ、それから静かに目を伏せた。


「……そうか」


 それだけだった。灰色の目は、卓の木目を見ている。


 この方は気づいている。わたくしが知ってしまったことに。そして、それを言わずにおくと決めたことにも。


 沈黙が卓の上に置かれた。気詰まりではない、あの沈黙だった。


 やがて旦那様は立ち上がり、扉のところで足を止め、こちらを見ずに言った。


「谷の者に、伝えてくれ」


 声が、いつもより低かった。


「──生きている、と」


 わたくしは、深く頭を下げた。


 三年、口に出せなかった一言だ。恩人を守るために飲み込んできた、たったひと言。それを、いま妻の口を借りて、あの方は谷へ届けようとしている。


「必ず、お伝えいたします」


 扉が閉まったあと、わたくしはしばらく、その場に立っていた。


 窓を閉めるとき、風が、いつもと違う匂いを運んできた。


 湿った、重たい匂い。峠を見に行っていた老兵が、昼間ぽつりと言っていた。この時期の北は、いちばん油断がならん、と。冬は死ぬときに暴れますでな、と。


 わたくしは窓を閉めて、明かりを消した。


 六日後。


 わたくしは、峠を越える。


 旦那様の言葉と、蜂蜜の壺と、匙を持って。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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