第二十八話 泣いたあとの手
翌朝、ハンナはいつもの刻限に厨房へ来た。
目は腫れていた。それだけだった。
竈の火を熾し、大鍋に湯を張り、下女たちに指図を飛ばす。声はいつもより低く、けれど手つきは一分の乱れもない。四十年、竈の前に立ってきた人の朝が、昨日と同じようにそこにあった。
泣いたあとの人がどう働くか。わたくしはそれを、この日はじめて間近で見た。
働くのだ。ただ黙って、いつもより丁寧に。
「奥方様。今朝の薬草でございます」
差し出された籠には、冬苔と白根草が寸分違わぬ長さに刻まれて並んでいた。刻み方の揃い方が、昨日までとは違う。指の震えを、この人は仕事の精度に変えていた。
「……ありがとう、ハンナ」
「刻むのは、あたしの仕事でございますから」
それだけ言って、ハンナは背を向けた。
昼、谷への荷を作った。
峠の解け目は日ごとに広がっている。ゲルト様が偵察に出した兵の話では、あと十日もすれば橇が通せるだろうという。それまでの繋ぎに、大麦と少しの蜂蜜、乾かした根菜を。
カイの遣いに持たせる荷を、わたくしは前より慎重に選んだ。足りないくらいで、ちょうどいい。あの子が身軽に峠を跳べるように。
荷の脇に、わたくしは一枚の紙を添えた。ヨルンへの覚え書きだ。
重湯が戻らなくなったら、次はうすい乳粥を。それも大丈夫なら、蕪を擂って漉したものを。階段は一段ずつ。急がせないこと。
書きながら、可笑しくなった。北へ来た日、わたくしの木箱に入っていたのは鍋と種と塩だった。それが今は紙と匙で、山ひとつ越えたところの人の胃を支えようとしている。
道具は増えていない。増えたのは、届けたい相手のほうだ。
夕方、厨房の片付けが終わったころだった。
わたくしは水甕の陰から、思わず息を詰めた。
ハンナが、隅の涼しい棚の前に立っていた。
漬け菜の樽が置かれた、あの棚だ。
しばらく動かなかった。それから前掛けの裾で、棚板の埃を払いはじめた。樽の周りをぐるりと、丁寧に、隅々まで。埃が落ちて、棚板の木目が現れる。
それから厨房の隅へ行き、薄い敷板を一枚持ってきた。片手で樽を──いいえ、触れなかった。棚板ごと少しだけ持ち上げるようにして、樽の下へ敷板を差し込んだ。傾いていた樽の座りが、まっすぐに直る。
樽には、指の一本も触れずに。
ハンナは敷板の角を確かめ、棚板をもう一度拭き、それから何事もなかったように竈のほうへ戻っていった。
わたくしは、水甕の陰から動けなかった。
あたしは、あの樽には、触れませんからね。
あの日の言葉を、この人は撤回していない。四十年の職人が自分の口にしたことを、そう簡単に引っ込めるものか。
けれど、手が。
棚を拭く手が、敷板を入れる手が、樽の座りを直していた。中で生きているものが傾いだままでは悪かろうと。
薪の一本を直した、あの朝の手と、同じだ。
この人の変わりようは、いつだって、頭より先に手から来る。
わたくしは何も言わなかった。見なかったことにして湯呑みを片付け、明日の大麦を水に浸けた。
言葉にすれば、ハンナはきっと固まってしまう。時間が溶かしているものを、言葉で急かしてはいけない。
髪を梳きながら、テアが小さく言った。
「お嬢様。……あの峠、本当に大丈夫でしょうか」
「ゲルト様と、兵の方々が一緒よ」
「そうじゃなくて。……お嬢様、この頃、ちっとも休んでいらっしゃらないから」
鏡の中のわたくしは、確かに少し痩せていた。旦那様の膳、谷への荷、覚え書き、そして毎晩の薬湯。手はいくらでも動くけれど、体は手ほど正直ではないらしい。
「大丈夫よ。……春が来るまでには、休むわ」
軽く言ったつもりだったのに、テアは納得しない顔で、櫛をゆっくり動かし続けた。
その夜。
食堂で、旦那様が匙を置いてから、ふと言った。
「峠は、あと十日だとゲルトが言っていた」
「はい」
「谷へ行くのだろう」
問いではなく、確かめる調子だった。わたくしは頷いた。
「行かせてくださいますか」
旦那様はしばらく黙っていた。灰色の目が、卓の上の何もないところを見ている。何を言おうか迷っているというより、何を言わずにおこうか決めかねている顔だった。
──薬のことは、この方は語らない。
わたくしも、聞かない。
やがて旦那様は、短く言った。
「ゲルトと、兵を五人つける」
「はい」
「……無理を、するな」
それから湯呑みを取り上げ、こちらを見ずに付け足した。
「おまえに倒れられると、この城の飯が、まずくなる」
わたくしは笑いを噛み殺すのに苦労した。
それは、この方の言葉の帳簿ではいったいどれほどの価値なのだろう。心配だ、とはおっしゃらない。行くな、ともおっしゃらない。ただ、飯がまずくなる、と。
言葉の外の、手つきの側。
わたくしはもう、この方の読み方を知っている。




