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旦那様は今日もよく食べる   作者: P作


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第二十七話 処方の紙

 カイの遣いが城門に着いたのは、それから八日後の朝だった。


 谷の男がひとり、峠の解け目を伝ってやって来た。ヨルンは重湯を受けつけている、戻す回数が減った、と伝えて、それから折り畳んだ紙を一枚、わたくしに差し出した。


 薬草の名と、煎じ方。カイの、まだ幼い字だった。蔵を守る家の子は覚え書きのために読み書きを仕込まれるのだと、遣いの男が言った。記録する民でなければ、六十年、白花は継げなかったのだろう。


 わたくしは厨房の卓に紙を広げ、ハンナを呼んだ。北の薬草の名など、王都育ちのわたくしよりこの人のほうがずっと詳しい。


「読んでちょうだい、ハンナ。……どの草か、分かる?」


 ハンナは前掛けで手を拭き、目を細めて紙を覗き込んだ。


「ええと。冬苔に、白根草。それと──」


 ふと、声が止まった。


 ハンナの目が、紙の上を上から下へもう一度なぞる。皺深い顔から、ゆっくりと表情というものが抜け落ちていった。


「ハンナ?」


 返事はなかった。


 ハンナは紙を持ったまま、竈の脇へ歩いていった。そして鉤に掛かった小さな土瓶を、じっと見上げた。


 わたくしの心の臓が、大きく打った。


 この頃わたくしが煎じ、それより前の三年はハンナが草を調え、あの方がご自分で煎じていた薬湯。その処方をこの城でいちばんよく知っているのは──ハンナと、わたくしだ。


「……同じでございます」


 ハンナの声は、掠れきっていた。


「草の数も、割合も。煎じる時の刻み方まで。……閣下のお薬と同じでございます。奥方様」


 厨房が、しんと静まり返った。


 紙の上の、幼い字。冬苔、白根草。カイが谷から書き写した爺様の薬。それが、この城の竈で三年間、毎晩煎じられ続けてきたものと同じ。


 ──爺様の薬は、よく効くんです。何年か前も、死にかけの人を助けたって。


 あの日、雪の匂いの中に紛れてしまった引っかかりが、いま、まっすぐに立ち上がった。


 死にかけの人。


 三年前。医者が匙を投げ、城の誰もが諦めかけたとき。あの方の命を繋いだのは──穢れと呼ばれる谷の老人の薬だったのだ。


 立っていられなくて、わたくしは卓に手をついた。


 ゲルト様の言葉が、いま初めて正しい形に嵌まる。閣下は、あの谷に、恩がおありなのです。


 だから旦那様は、里の白い目にも、谷への庇護をやめなかった。だから「山のことなら、ゲルトに聞け」とわたくしを禁じなかった。あの方はずっと知っていた。自分を生かした薬がどこから来たかを。三年、その恩を誰にも語らず、夜ごと土瓶で煎じていた。


 なぜ、語らなかったのか。


 ──語れば、谷が困る。穢れの民の薬で辺境伯が生きていると知れれば、教会も里も、黙ってはいない。


 あの方は、恩人を守るために、恩を口にしなかったのだ。


 ハンナが、崩れるように竈の前に座り込んだ。紙を握りしめた手が震えていた。


「……あたしは。あたしは、三年、この薬草を調えてまいりました」


「ハンナ」


「毎朝、棚から出して。刻んで、揃えて、閣下がご自分で煎じられるように。……お医者様の残された処方だと、ずっと、そう思って」


 ハンナの肩が、大きく震えた。


「若様のお命を繋いだ草を、この手で分けておりました。それが、穢れの民の。あたしがあんなに怖がって、鍵も渡さないと言った、あの谷の」


 言葉は、そこで途切れた。ハンナは前掛けに顔を埋め、声を殺して泣いた。


 わたくしは、その丸まった背中に、そっと手を置いた。


 何も言えなかった。この人の四十年と、六十年の言い伝えと、三年の夜と。そのすべてが、いま一枚の紙の上でぶつかり合っている。それをほどくのはわたくしの言葉ではない。時間だ。


 昼のうちに、ゲルト様を厩の脇に呼び止めた。紙を見せると、あの武人はしばらく黙って、それから一度だけ深く頷いた。


「三年前の冬でございます。医者どもが匙を投げ、それがしも覚悟をいたしました。……閣下ご自身が、山へ人をやれ、と。谷から降りてきた古老が、三日三晩、枕元におりました」


「なぜ、誰も知らないのです」


「閣下が、口止めをなさいました。知っておるのは、医者と、それがしだけで。……厨房の者にも、草の出どころは伏せてございます」


 ゲルト様は、それきり黙った。それ以上は、あの方の領分だという顔だった。


 その日の夕餉の席で、わたくしは旦那様の顔を見た。


 問いたいことは山ほどあった。けれど、何も聞かなかった。


 この方は語らなかったのだ。三年、恩人を守るために。ならばわたくしが、その沈黙を暴く道理はない。


 ただ、いつもより長く、丁寧に煎じた薬湯を湯呑みに注いで、そっと差し出した。旦那様はいつものように受け取って、いつものように飲み干した。


 それだけの夜だった。


 窓の外では、雪解けの水が樋を流れる音を立てはじめていた。峠に道がひらく季節が近い。


 ──わたくしは、谷へ行こう。


 確かめに、ではない。


 夫の命を繋いでくれた人に、礼を言いに。そして、その人が今度は食べられずにいるのなら、わたくしの匙でその坂道を止めるために。


 厨房の隅で、漬け菜の樽が、静かに泡を立てていた。


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