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第二十六話 届かない薬

 カイが二度目に城門を叩いたのは、それから十日ほど後のことだった。


 前より、痩せていた。


 背の籠は空で、手ぶらだった。換えるものが、もう何も残っていないのだ。それでも峠を越えてきたということが、谷の切迫をどんな言葉より雄弁に語っていた。


「奥方様。……お願いが」


 カイは土間に膝をつきかけ、わたくしに止められて、それから震える声で言った。


「爺様が、起きられなくなりました」


 厨房の空気が、しんと静まった。


「秋から具合が悪くて、それでも蔵の世話だけはしてたんです。でも、この十日はほとんど何も食べなくて。粥も汁も、ひと口飲んで戻してしまう。……薬草も、谷の分はもう」


 言葉が途切れた。


 この子は塩を求めて来たのではない。祖父を助けてほしくて、峠をひとりで越えてきたのだ。


 わたくしの中で、料理番ではないほうの記憶が静かに立ち上がった。


 食べられない。飲めば戻す。老いた体。


 あの日、石段の上の旦那様を見たときと同じ形の絵だった。


「カイ。落ち着いて、答えてちょうだい」


 わたくしは膝をついて、少年と目の高さを合わせた。


「戻すのは、食べてすぐ? それとも、しばらく経ってから」


「……すぐ、です」


「水は。水も、戻すの」


「水は、少しなら」


「熱は? 手足は冷たい? 寝ているとき、息は苦しそう?」


 問いを重ねるたび、カイの目にほんのわずかずつ光が戻ってくるのが分かった。誰かが真剣に、爺様の体のことを聞いてくれている。その事実だけで、この子の背骨は少し立ち直った。


 答えを聞き終えて、わたくしは考えた。


 急な病というより、長い衰えだ。食べられないから力が出ず、力が出ないから食べられない。その坂道をヨルンという人は、いま転がり落ちている。


 止められる。手が届きさえすれば、止められる。


 重湯から。旦那様にしたのと、同じ階段を、一段ずつ。


「ゲルト様。峠は、越えられまして?」


 厨房の隅から、ゲルト様が重い声で答えた。


「……なりませぬ。この時期の峠は、日に何度も雪が崩れます。この子がひとりで越えてこられたのが奇跡でございますよ。荷を負って女人を連れてというのは、命を捨てに行くようなもので」


 わたくしは、唇を噛んだ。


 山ひとつ。たった山ひとつ向こうで、人が飢えて弱っている。治し方を、わたくしは知っている。知っていて、雪が届かせてくれない。


 ──知っていることと、使えることは、違う。


 もやしの答えを棚に戻したあの日の言葉が、今度は違う形でわたくしを刺した。あのときは禁忌が、今度は雪が、答えとひとを隔てている。


「できることを、するわ」


 わたくしは立ち上がった。


「カイ。爺様に、これを持ち帰って」


 大麦を袋に詰めた。塩の壺、香草の束、蜂蜜の小壺。並べていくうちに、カイが遠慮がちに口を挟んだ。


「奥方様。……そんなに、持てません」


「でも、これだけあれば」


「峠は、荷が重いと死にます」


 少年は、山の子の顔をしていた。


「軍の方が越えられないのは、荷を負うからです。おれは身ひとつなら、雪の薄いところを跳んで渡れる。……背中が軽ければ、生きて帰れます」


 わたくしは、自分の手元を見下ろした。並べた品々の、なんと欲張りなこと。


 ――足りないくらいで、ちょうどいい。


 自分の口癖に、自分で頬を叩かれた気がした。濃くしては駄目、と言いながら、荷は濃く盛ろうとしている。届けたいのは物ではない。爺様が明日を越すための、いちばん細い一本の道だ。


 わたくしは、蜂蜜の小壺と香草を戻した。塩も、半分に減らした。残したのは、大麦と、小さな蜂蜜の袋がひとつ。


「これだけ。……これだけを、必ず届けて」


 それから炊き方を紙に書き、いちばん大事なことを、この子の目を見て教えた。


「粒は指で潰れるまで柔らかく煮て、布で漉すの。上澄みだけ。濃くしては駄目。人肌より、ほんの少し温かいくらい。それを匙で、少しずつ。……戻したら休んで、また少し」


「上澄み、だけ」


「そう。物足りないくらいでちょうどいいの。弱った体は階段を一段ずつしか登れない。急がせたら、崩れてしまうから」


 カイは、必死の顔で頷いていた。


 ゲルト様は兵をふたり付けて、峠の取り付きまで送らせることにした。そこから先は、山の子の足に委ねるほかない。ヨーゼフは何も言わずに、谷への支出をまた一行、帳面へ書きつけた。


 そして最後に、わたくしは一枚の紙を渡した。


「これも。……爺様の飲んでいる薬草の名を、書いて寄越してほしいの。どんな草をどのくらい、どう煎じているか。次にわたくしができることが、そこから見えるかもしれないから」


 カイは頷いて、それから、ふと言った。


「爺様の薬は、よく効くんです。何年か前も、死にかけの人を助けたって、婆様が」


 ふと、胸の奥で、何かが引っかかった。


 死にかけの人を、助けた。


 けれどカイはもう籠を背負い直していて、その背中を見送るうちに、引っかかりは雪の匂いの中に紛れてしまった。


 その夜、わたくしは自分の帳面を開いた。


 書きたいことは、たくさんあった。峠。雪崩。届かない薬。それから、ヨルンという人の遠い坂道。


 けれど、わたくしがいちばん長く見つめたのは厨房の隅の棚だった。


 カイの置いていった漬け菜の樽が、暗がりで、まだ静かに泡を立てている。


 旦那様の膳に、これを載せる日はまだ来ない。酸も塩気も、あの方の胃には早すぎる。それに──穢れと呼ばれるものを当主の膳に載せることが、この城で何を意味するか。ハンナの顔を見れば分かる。


 それでも。


 わたくしは、帳面に一行だけ書いた。


 発酵の旨みなら、あるいは、あの方の舌にも届くのではないか。


 舌が固い壁に閉ざされていても、旨みは甘さや酸っぱさとは違う道を通る。前世でそう習った。もしその道が、まだ焼けずに残っているのなら──。


 まだ、試せない。


 試すなら、いちばん優しい形で。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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