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第二十五話 樽ひとつの、覚え書き

 カイが残していった樽を、わたくしは毎日、観察した。


 厨房のいちばん涼しい棚に置き、朝と晩に蓋を開けて匂いを嗅ぐ。菜の色、汁の濁り、泡の立ち方。前世の記憶と目の前の樽を几帳面に照らし合わせていく。


 ──生きている。


 間違いなかった。この漬け菜は腐っているのではない。乳酸の菌が菜の糖を食べて、酸と旨みに変えている。塩が雑菌を抑え、良い菌だけが増える。腐敗ではなく、発酵。守りではなく、育て。谷の民はその仕組みを、理屈は知らずとも手と舌で完璧に飼いならしていた。


 夜、旦那様の膳のあとで、樽のことを話してみた。


「谷の子が、漬け菜を置いていきました。……穢れと呼ばれているものを、厨房に置いております。お叱りになりますか」


「それを、どうするつもりだ」


「学びます。いつか、村の子らの冬に、青いものを届けるために」


 旦那様は、しばらく黙って、それから短く言った。


「好きにしろ。奥向きのことだ」


 初日と同じ言葉。けれど今夜のそれは、突き放しではなく、任せる、という響きをしていた。


 ひと切れ、味を見た。


 酸味の奥に、深い旨みと菜そのものの青い香りが立っていた。冬の乾いた舌に、じんと沁みる。塩漬けの、ただ辛いだけの保存食とはまるで違う。これは保存しながら、なお美味くなる食べものだ。


 村の子の、切れた唇を思い出した。


 これがあれば。この漬け菜がひと樽、どの家の冬にもあれば。青いものの欠乏で軋むあの子たちの体は、どれほど楽になるだろう。


 わたくしは、覚え書きを取りはじめた。希望の帳簿とは別に、新しい帳面を一冊おろした。表紙に何も書かない、谷の知恵のための帳面だ。


 塩の割合。漬け込む前の下ごしらえ。良い泡と、悪い兆し。樽の置き場所の温度。カイの残した一樽から読み取れることを、洗いざらい帳面に書きつけていく。


 書きつける言葉は、慎んで選んだ。前世の言い方は、この世界では通じない。通じたら通じたで、危うい。だから「見えない働き手が、菜を甘い酸っぱさに変える」「良い種を悪い種に負けさせないために、塩を打つ」──そんなふうに、この土地の耳になじむ言葉で書いた。前世で味噌を仕込んだ手が、六十年封じられてきた北の知恵を、少しずつ、災いの種にならない言葉へと翻訳していった。


 けれど、書けば書くほど、分からないことも増えた。


 この菜は何という草なのか。塩の割合はこれで正しいのか。泡が止まったら、どうなるのか。何より──谷では、これを、どうやって代々続けてきたのか。


 書物には載っていない。この城の誰も知らない。答えを持っているのは、山ひとつ越えた谷のヨルンという古老、ただ一人だ。


「奥方様は、あの樽が、そんなに面白うございますか」


 ある朝、竈の向こうから、ハンナがぽつりと言った。


 わたくしに話しかけてくれたのは、あの日以来初めてだった。凍っていた厨房の氷が、樽ひとつを挟んでわずかに緩んだ。


「ええ、とても。……ねえ、ハンナ。この漬け菜、匂いは、どう? 穢れの匂いが、する?」


 ハンナは、しばらく黙った。それから、正直な人らしく、正直に答えた。


「……いいえ。酸っぱくて、悪くない匂いでございますよ。だからこそ、恐ろしいのでございます」


 だからこそ、恐ろしい。


 その一言に、この土地の禁忌のいちばん深いところが覗いていた。美味しそうに見えるからこそ恐ろしい。心を惹かれてしまうからこそ罪深い。禁忌とは嫌悪ではなく、魅力を封じる檻なのだ。


「無理には、勧めないわ」


 わたくしは、静かに言った。


「でも、ハンナ。ひとつだけ聞いて。……わたくしはいつか、この漬け菜を村の子どもたちの冬の食卓に届けたいの。あの唇の切れた子たちに、青いものを」


 ハンナは、答えなかった。


 けれど、その夜。わたくしが帳面に覚え書きを取っていると、ハンナが湯呑みをひとつ、黙って卓に置いていった。


 温かい、生姜の湯だった。


 言葉はない。けれどそれは、六十年の氷がひと匙ぶん溶けた音だった。


 湯呑みの生姜は、よく効いていた。喉から胸へ、じんわりと温もりが降りていく。この人は、言葉で歩み寄る代わりに、温かいものをそっと置く。……わたくしが、この城でずっとしてきたことと、同じやり方で。


 わたくしは、帳面の隅に小さく書き足した。


 湯霧の谷へ。雪が解けたら。ヨルンに会いに。


 そして、いちばん最後に、こう書いた。


 ──ハンナ、生姜の湯。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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