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第二十四話 門前の、酸っぱい青物

 その少年が城門に現れたのは、風の冷たい昼下がりだった。


 歳の頃は十四、五。継ぎの当たった毛皮を着込み、背に大きな籠を負っていた。唇は寒さで紫になり、けれど目だけは追い詰められた獣のように光っていた。


「門番に、追い返されかけておりました」


 ゲルト様が、その子を伴って厨房へ来た。


「湯霧の谷の子でございます。ヨルンの、孫の」


 湯霧の谷。ヨルン。つい先日ゲルト様から聞いたばかりの名前が、雪と埃にまみれた少年の姿で目の前に立っていた。門番が追い返そうとしたのを、ゲルト様がわざわざ厨房まで通したのは、旦那様の「山のことなら」という一言があったからに違いない。あの黙認は、こういう形で効くのだ。


「カイ、と申します」


 少年は硬い声で名乗り、それから背の籠を土間に下ろした。


「塩を。……塩を、分けてほしいのです。これと、換えてください」


 籠の布を、カイが取り払う。


 現れたのは、木の樽と、藁で包んだ幾つもの塊だった。ひとつ蓋を開けると、つんと酸味のある、けれど不思議と食欲をそそる匂いが立ちのぼった。


 刻んだ菜を漬け込んだものだった。乳白色に濁った汁の中で菜は艶やかな飴色に変わり、小さな泡がぷつぷつと浮いている。


 ──乳酸発酵の、漬け菜だ。


 わたくしは危うく声を上げそうになった。ハンナが言っていた、雪のさなかの酸っぱい青物。禁忌の向こう側にあるはずのそれが、いま、わたくしの厨房の土間にある。生きて、泡を立てて。


「山では、塩が尽きました」


 カイは、うつむいたまま言った。


「里の村は、どこも換えてくれません。穢れが移る、と。……それに里も、塩が高くて手放せないんだと。前は少しなら分けてくれたのに、今年はどこも自分の家の樽で精一杯だって」


 塩が高い。その一言に、帳簿の後ろの頁が頭をよぎった。塩の値は三年前から段を高くしている。その締めつけは里を越えて、山の奥の谷にまで、こんな形で届いていた。


「……この城の殿様は、昔、谷を助けてくださったと、爺様が。だから、ここなら、と」


 塩がなければ、漬け菜は仕込めない。青物の保たない冬に、漬け菜は谷の命綱だ。その命綱の要である塩を、谷は偏見と高値、ふたつながらに断たれていた。


 塩は、時を止める。谷では、その塩で菜を漬け、時をかけて滋養に変える。塩と発酵──止める力と、育てる力。谷の暮らしは、そのふたつで冬を越してきたのだ。


 わたくしの中で、何かがまっすぐに繋がった。


「ハンナ」


 わたくしは、竈の奥で凍りついているハンナに、静かに声をかけた。


「塩蔵の鍵を。……この子に、塩を」


 ハンナの顔がこわばった。穢れの民。山者。白花の谷。あの恐怖のすべてが、いま痩せた少年の姿で厨房に立っている。ハンナの手は鍵に伸びなかった。


 けれど、そのハンナの目がふと、カイの紫色の唇に留まった。土間に下ろした籠。凍えた指。空きっ腹を抱えて雪の峠を越えてきた、子どもの姿に。


 ハンナは、長いこと動かなかった。


 それから、ぼそりと言った。


「……鍵は、お渡ししますよ。奥方様がそうお決めなら。ですが、あたしは」


 声が、震えていた。


「あたしは、あの樽には、触れませんからね」


 それが、この人の精いっぱいだった。恐怖を捨てられない。けれど飢えた子に塩を渡すことは、拒めない。四十年、人の腹を満たしてきた人の、恐怖と情のぎりぎりの境目がそこにあった。


「ありがとう、ハンナ。それで十分よ」


 わたくしは鍵を受け取り、塩蔵へ降りた。


 ひと壺では足りない。峠を越えて命綱を絶たれた谷が、ひと冬をしのぐには。わたくしは量りの手を、二壺ぶんまで大きくした。塩は北の血の道だとゲルト様は言った。ならばこの血を、山の側にも回して何が悪いだろう。あとで旦那様に叱られたら、そのときは、そのときだ。


 カイは塩壺を両手で抱きしめるようにして受け取った。強張っていた目に、初めて幼い子どもらしい安堵の色がにじんだ。


 塩蔵の帳面には、ヨーゼフが几帳面な字で一行を加えた。山へ、塩二壺。数字は嘘をつかない、といつか言った老家令は、この一行の意味を問いもせず、ただ正しく書き留めた。城が谷を助けた。それが、記録に残った。


「……これ、置いていきます」


 カイは、漬け菜の樽をひとつ、土間に残した。


「換えっこ、ですから。……穢れてなんか、いません。うちの婆様が、ずっと大事に継いできた種で、漬けたやつです」


 その言葉が胸を刺した。継いできた種。ぷつぷつと泡を立てる、生きた菜。この子は自分の家の宝を、穢れと呼ばれながら、それでも誇りを持って差し出している。


 カイが帰ったあと、土間に残された樽の前で、ハンナは遠くからじっとそれを見ていた。


 触れはしない。けれど、目を逸らしもしなかった。


 わたくしは、その樽をそっと厨房の隅の、いちばん涼しい棚へ移した。中で菜はまだ生きていて、小さな泡を立てている。これは、里の誰も知らない知恵の、生きた見本だ。禁忌の向こうから、自分の足で歩いて、わたくしの厨房までやって来た。


 春になったら、山へ行こう。


 ぷつぷつと泡を立てる樽を見つめながら、わたくしは、その思いを固めていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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