第二十三話 凍った厨房で待つ
厨房は、まだ凍っていた。
ハンナは、わたくしと必要な言葉しか交わさなくなった。おはようございます。この鍋を。かしこまりました。用の済んだ会話だけが竈の前を行き来する。蟹の泡の火加減を教わり合った朝の温かさは、遠い日のことのようだった。
焦らない、と決めていた。
人の心は押せば固くなる。とりわけ恐怖で固くなった心は。無理にこじ開ければ、二度と開かなくなる。前世で、頑なな患者さんを幾人も見た。食べたくない、生きたくないと心を閉ざした人。あの人たちに効いたのは説得ではなかった。ただ毎日、変わらずそこにいること。今日も来た明日も来ると体で伝えること。それだけが凍った心を少しずつ溶かした。
だから、わたくしはいつもどおりに厨房に立った。
いつもどおり大麦を選り、竈の火を熾し、旦那様の膳を支度する。ハンナが凍っているぶん、わたくしは温かくいよう。責めず拗ねず、いつもの仕事をいつもの手つきで。
テアが、そっと気を揉んでいた。夜、髪を梳きながら「ハンナさん、まだ怒ってるんでしょうか」と心配そうにする。わたくしは笑って首を振った。
「怒っているんじゃないの。怖がっているのよ。怒りはぶつければ晴れるけれど、怖さは、そばにいて溶かすしかないの」
三日目の朝、小さな出来事があった。
わたくしが竈の火加減にてこずっていると、ハンナの手がつい、と伸びてきた。薪を一本、位置を変えて火の通りを直す。四十年の手が、考えるより先に動いたのだ。
はっと我に返ったハンナは、気まずそうに手を引っ込めた。
「……ありがとう、ハンナ。助かったわ」
わたくしは、何事もなかったように礼を言った。ハンナは何も言わず、けれど、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
体は覚えている。四十年、火のそばで生きてきた体は、恐怖よりも古い場所で、竈と、竈を囲む者とのやり方を覚えている。頭が凍っても、手は温かさのほうを向く。
急がなくていい。溶けるものは、溶ける。
旦那様のほうは、あれきり山のことに触れなかった。ただ、膳を運ぶわたくしを見る目に、時折、問いのようなものがよぎる。急いてはいないか。傷ついてはいないか。言葉にはならない気遣いが、灰色の目の奥にある。あの方も、あの方なりに、わたくしの様子をうかがっているのだった。
その晩、旦那様の膳を運んだあとで、わたくしは久しぶりに豆をひと掴み、鍋で炒った。
夜食にするつもりだった。けれど乾いた鍋で豆が爆ぜて、香ばしい匂いが立ちのぼった瞬間──胸の奥が、ぎゅうと掴まれた。
この匂いを、知っている。
前世の、あの日。
蔵が、燃えた夜だ。
冬の夜だった。乾燥の続いた年で、隣家の失火が飛び火した。祖母が守ってきた杉樽の蔵が、麹の花を咲かせた蔵が、一晩で炭になった。焦げた豆と麹の甘くて苦い匂いが、朝まであたりに満ちていた。祖母は燃え落ちた蔵の前に座り込んで、ひと言も泣かずに、ただその匂いを吸っていた。
──また、建てればいい。麹は、また、どこからでも来る。
焼け跡で祖母はそう言った。声は驚くほど静かだった。菌は死なない。空にも土にも、この手にも、麹の種はいる。蔵は焼けても、醸すという営みは焼けない。だから、また建てればいい──。
鍋の中の豆が、焦げる寸前だった。
わたくしは慌てて火から下ろし、目元をそっと拭った。
なぜ今、この記憶が来たのか。分かる気がした。
湯霧の谷に、蔵がある。ヨルンという古老が守る、麹の生きた蔵が。そして、たぶんその蔵は、死にかけている。ゲルト様は「今も幾家族かが」と言った。幾家族か、という数え方。あれは増えていく者の数え方ではない。減っていく者を、指の先で数えるときの言い方だ。
祖母の声が、六十年の禁忌と雪の山を越えて、わたくしの背中を押している気がした。
また、建てればいい。麹は、また、どこからでも来る。
炒った豆を小皿に取り分けて、わたくしは竈の脇を見上げた。あの土瓶が、今夜も飴色に光っている。三年の孤独を運んだ器が、今はここに帰る場所を持っている。器は焼けても、また置き場所ができる。人の心も、たぶん、そうなのだ。
窓の外で、また一滴、氷柱の雫が落ちた。
山はまだ雪の中。谷への道は、遠い。
けれど春は必ず来る。その日、わたくしは山を越える。焼けた蔵の娘だったわたくしが、死にかけた蔵に会いに行く。
炒った豆を口に含むと、香ばしさの奥に、ほんのりと遠い日の甘さがした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




