第二十二話 腐りもので、生き延びた民
翌朝、わたくしはゲルト様を、厩の脇の道具小屋に訪ねた。
旦那様が「ゲルトに聞け」とおっしゃった。それは、聞いてよいという許しだ。けれど厨房でこの話をすれば、またハンナを凍らせてしまう。人気のない小屋を選んだのは、そういう心づかいのつもりだった。
「山の民の、話でございますか」
ゲルト様は、繕いかけの馬具を膝に置いたまま、しばらく黙った。それから、ぽつりと切り出した。
「──大飢饉の話から、始めねばなりますまい」
六十年ほど前、北を三年続きの凶作が襲った。
夏に雪が降り、麦は実らず、塩漬けの蓄えも底をついた。里の民は、次々と冬に飲まれていった。村がまるごと消えた谷もあったという。
「そのとき、山の民だけが、生き延びたのでございます」
ゲルト様の声は、淡々としていた。
「あの者たちは山の蔵に、酸っぱい漬け菜だの、白い花を咲かせた豆だのを蓄えておりました。里の者が腐りものと呼んで捨てるものを、あの者たちは冬を越す糧にしていた。……里が飢えて死ぬ冬に、山だけが、痩せもせなんだ」
わたくしは、息を詰めて聞いていた。
発酵食が、飢饉を越えさせたのだ。塩漬けとも乾パンとも違う。時をかけて仕込んだ、腐らずに滋養を増す食べもの。それを持っていた民だけが、死の冬を生きた。
それは本来、羨まれ乞われ、真似られるべき知恵だったはずだ。
「けれど、里の者は、そうは取らなかったのでございますね」
「……ええ」
ゲルト様は、繕いの手を止めた。
「飢えて子を埋めた親が、腹を空かせて年を越した里が、山の者の肥えた顔を見てどう思ったか。ありがたい、とは、なりませなんだ。あんな腐りものを食う者たちが、なぜ生きている。まともな人間の食わぬものを食うから、あやつらは呪われておるのだ。……人は、羨む相手を、そうやって穢れに落とすのでございます」
妬みが、恐怖に化けた。恐怖が、穢れという名の作り話に凝った。
腐りものを食う者は呪われている。口にした家は絶える。子が生まれなくなる。畑が枯れる。──生き延びた者への妬みが、六十年かけて、そういう言い伝えに凝り固まったのだ。
「そして教会が、それを、固めたのでございます」
ゲルト様の声が、少しだけ低くなった。
「膨れてよいものは教会が聖別した葡萄酒と乾酪だけ。それ以外の発酵は穢れ。……そう定めれば、聖別の管理は教会の力になりますゆえ。飢饉の妬みと、教会の都合が、ちょうど噛み合ったのでしょうな」
わたくしは、蔵の戸を閉めたハンナを思い出していた。あの怯えはハンナ一人のものではない。六十年の飢えと妬みと教会の権威が、あの節くれだった指の聖印に、みんな畳み込まれているのだ。
「ひとつ、伺っても」
わたくしは、いちばん知りたいことを尋ねた。
「その山の民は、今も、いるのですか」
「おります」
ゲルト様は、迷いなく答えた。
「湯霧の谷、と申します。城の裏手の、山ひとつ越えた奥。温い霧の湧く谷で、今も幾家族かが、昔ながらの暮らしを守っております。……蔵を預かる古老は、ヨルン、と」
湯霧の谷。ヨルン。
わたくしは、その名を胸に刻んだ。
「意外でございましょう」
ゲルト様が、ふと口の端をゆるめた。
「それがしのような武人が、山の者を悪く言わぬのが」
「……ええ、少し」
「冬の山で、道に迷うた兵を、幾人も助けてもろうたのでございますよ。温かい漬け菜の汁を飲ませ、暖を取らせて、里まで送ってくれた。……腐りものを食う穢れの民が、でございます。兵で、あの者たちを蔑む者は、おりませぬ」
軍は、蔑まない。
里は、穢れと呼ぶ。同じ山の民を、見る場所によって人はこれほど違うふうに見る。
「奥方様」
小屋を出ようとしたわたくしを、ゲルト様が呼び止めた。
「閣下が、なぜ奥方様を、それがしに差し向けられたか。……お分かりになりますか」
わたくしは、首を振った。
「閣下は、あの谷に、恩がおありなのです」
ゲルト様は、それだけ言って、また馬具に目を落とした。その先を、今日は語る気がないらしい。
恩。毒を盛られ、食を奪われたあの方が、穢れと呼ばれる谷に、恩がある。
道具小屋を出ると、雪はまだ深かった。氷柱が一本、日を受けて雫を落としている。ゆるんだのは一時のこと。山はまだ、白い眠りの中だ。
湯霧の谷までは、山ひとつ。今すぐ行ける道ではない。雪解けを待つしかない。
新しい謎が、ひとつ増えた。けれど今日のところは、名前だけで十分だった。
湯霧の谷。ヨルン。そして、旦那様の知らない恩。
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