第二十一話 白い花の名前
氷柱の落ちる音は、まだ峠を越えたという印にすぎなかった。山も畑も雪の中のまま、それでも日の暮れは少しずつ遅くなって、厨房の窓に差す光の色が変わりはじめていた。
春の献立を、考えはじめてもいい頃だった。雪解けの水がゆるめば畑がある。畑があれば青いものが植えられる。頭の中の帳面には、蒔きたい種の名がもう並びはじめていた。
その昼下がり、わたくしはハンナと竈の前で、豆を選っていた。山豆という北の豆で、固くて癖がなくてよく肥える。煮ても擂ってもいいけれど、この豆を見るたびわたくしの手は前世の記憶のほうへ滑っていく。
大豆に、よく似ているのだ。
「春になったら、この豆でいろいろ仕込みたいわね」
口をついて出たのは、半分は独り言だった。
「甘い飲みものも作れるし、この豆と塩で何年ももつ、うまみの素も仕込める。……麹さえ、あれば」
言いながら、前世の蔵が胸をよぎっていた。杉樽の並ぶ薄暗がり。蒸し米の湯気。祖母の手の中でふわりと咲いていた、あの白い花。この世界に来てから、いちばん遠くにあるいちばん恋しいもの。
「こうじ?」
ハンナが豆を選る手を止めずに、聞き返した。
「ええ。蒸した麦や豆に、白い花みたいなふわふわを咲かせたものなの。それがあれば甘みも旨みも、いくらでも──」
豆の鳴る音が、止まった。
顔を上げると、ハンナの手が、鉢の上で凍りついていた。
「……白い、花」
声が、これまで聞いたどの声とも違っていた。
「奥方様。それは。……山神の白花のことを、おっしゃっているので」
山神の、白花。
初めて聞く名前だった。けれどハンナの顔から血の気が引いていく速さが、その名前の重さを、どんな説明よりも先に教えていた。
「ハンナ、わたくしは、ただ──」
「なりません」
ハンナは立ち上がった。豆の鉢が、がたりと鳴った。
「腐れ膨れだの芽出し麦だの、あんなものとは、わけが違います。白花は。白花だけは、なりません。口にした家は絶える、と申します。子が生まれなくなる、と。畑が枯れる、と。だから山の連中は、あんなふうに──」
言いかけて、ハンナは口を押さえた。節くれだった指が、胸の前で聖印を結ぶ。一度、二度、三度。初めて聖印を結ぶのを見た、あの日とは違う。あのときの怯えが幼子を諭す怯えなら、今日のは災いを目の前にした人の怯えだった。
「お願いでございます、奥方様」
ハンナの声が、震えながら低くなった。
「ようやく。ようやく若様が、食べるようになられたんです。夜も眠って、食堂に降りて、頬に肉も戻りはじめて。……この城に、これ以上のことは望みません。ですからどうか、どうか、白花の話だけは、二度と」
その言葉で、分かってしまった。
この人の恐怖の芯にあるのは、掟でも、教会でもない。若様なのだ。四十年見てきた子どもが三年かけて死にかけて、ようやく食卓に戻ってきた。その奇跡のような回復に、穢れがひとつでも触れたら──ハンナはそれが、怖い。怖くて怖くて、たまらないのだ。
「……ごめんなさい、ハンナ。軽々しく口にしました」
わたくしは頭を下げた。下げながら、胸の中で何かが軋むのを聞いていた。
ハンナは黙って豆の鉢を抱え、蔵のほうへ下がっていった。その背中は、わたくしが初めてこの厨房に立った日の、あの硬い背中に戻っていた。
豆の鉢の置かれていた台の上に、選りかけの豆が数粒、転がったままになっていた。わたくしはそれをひとつずつ拾って、鉢のあった場所に小さく寄せた。ほかに、できることがなかった。
夕方まで、厨房の空気は凍ったままだった。リタは目を合わせず、下女たちの手は妙に静かで、あれほど温まった台所が、ひと言で冬に戻った。
罰当たりなところがひとつもない、とハンナは言ってくれた。あの信頼の但し書きの中身を、わたくしは今日、とうとう踏んだのだ。
線を先に確かめてから動く。雪に蕪を埋けたときも、そう決めて、そうしてきたはずだった。それなのに今日は、確かめる前に口が動いた。恋しさというものは、決めごとよりも古い場所から来るらしい。
それでも──。
頭の隅で、冷えない火が燃えていた。
山神の白花。名前が、あった。腐れ膨れのような漠然とした蔑みではない。固有の名を持ち、固有の伝承を持ち、「山の連中は」と続く言葉を持つ禁忌。名前があるということは、実在するということだ。この土地のどこかに、麹は生きている。生きていて、誰かがそれを、使っている。
夜の膳は、いつもどおりに支度した。手は動く。台所の仕事のいいところだ。
食堂で、給仕に立ったリタの顔は、まだ青いままだった。皿を置く手つきが硬い。昼の厨房の凍りつきは、夕刻にはもう、階上まで届いているだろう。この城の噂は、雪よりも速い。
器が半分空いた頃だった。
旦那様がふと匙を止めて、わたくしを見た。
「……何か、あったか」
心の臓が、小さく跳ねた。
「なぜ、そうお思いに」
「匙の音が、いつもと違う」
わたくしは、自分の手元を見下ろした。この方は。毎晩、匙の音の側から世話をされてきたこの方は、いつのまにか匙の音でわたくしを読むようになっていた。
「……なんでも、ございませんわ」
「そうか」
旦那様はそれ以上聞かずに、匙へ戻った。聞かない優しさというものを、この方は元から持っていたのか、それとも覚えたのか。
けれど食事が終わって、器と匙が布の上に揃えられたあと、旦那様は席を立ちながら、こちらを見ずに言った。
「……山のことなら、ゲルトに聞け」
息が、止まった。
匙の音で読めるのは「何かあった」まで。中身は、この城の雪より速い噂が運んだのだろう。厨房で何が凍りついたのか、この方はもう知っている。
知っていて──叱らなかった。禁じなかった。
毒を盛られたこの方が、穢れと呼ばれる民のもとへ、わたくしを行かせようとしている。その意味を、廊下に出てからも、わたくしはしばらく考えていた。
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