第十九話 ばあやの話
「……おまえは、食わんのか」
膳を並べ終えたわたくしに向けられたのは、そういう問いだった。
旦那様は匙を取りかけた手を止めて、卓の向かいの空いた席を目で示した。
「同じ釜のものを食う、と言ったのは、おまえだろう」
言われて、気づいた。あの誓いをわたくしは台所で果たしてきた。皆と同じ鍋のものを、厨房の隅で給仕の合間に。けれどこの方の前で、この方と同じ卓で食べたことは、一度もなかったのだ。
「……では、お相伴にあずかります」
ハンナが大慌てでもうひと組の膳を整えた。厨房の奥からは食器の触れ合うにぎやかな音がして、ふだんは物静かなヨーゼフまでが酒器の棚の前で何やら迷っている気配がする。祝いの膳ではないのだから、と思ったけれど、言わないでおいた。城じゅうが浮き足立つのを咎める権利は、たぶん今夜のわたくしにはない。
初めての、二人の食卓だった。
妙なものだ。毎晩この方の食べる姿を見てきたのに、自分が食べる姿を見られるのはこんなに落ち着かない。
旦那様は、いつもどおり静かに匙を運んだ。わたくしも、いただく。蕪の軟菜は今夜もよく出来ていて、緊張のわりに匙は進んだ。
沈黙は、あった。けれど気詰まりな沈黙ではなかった。匙の音がふたつ、時々すれ違いながら静かな食堂に落ちる。それだけのことが、妙に豊かだった。
途中、旦那様の匙が一度だけ止まって、わたくしの手元を見た。人が自分の作った膳をおいしそうに食べる姿は、作った当人の食欲まで連れてくる。わたくしの匙の進みを、あの方は確かめるように眺めて、それから何も言わずに自分の匙へ戻った。
器が半分ほど空いた頃、旦那様がふいに口を開いた。
「……その心得は、どこで覚えた」
匙が、一瞬止まりそうになった。
「心得、とおっしゃいますと」
「料理ではない。……順番のことだ。湯から、粥、すり流し、いまの膳。おまえは初めから、階段を知っていた。医者どもは薬湯しか寄越さなかった。おまえだけが、道を知っていた。──誰に習った」
灰色の目が、まっすぐにわたくしを見ていた。
誤魔化しの利く目ではなかった。そしてわたくしには、用意してきた答えがひとつしかない。
「……ばあやに、でございます」
わたくしは、匙を置いた。
「実家の料理番の、ばあやでした。里の生まれで、食べることにかけては、誰よりものを知っている人で。弱った人にいきなり滋養を食べさせてはいけないこと。重湯から一段ずつ、階段をのぼらせること。硬いものはほどいて、届かない味は香りで届けること。……わたくしの知っていることは、みんな、その人に教わりました」
嘘では、ない。
ひとつも、嘘ではないのだ。祖母は本当にいた。蔵を守り、麹の花を育て、食べることは生きることだと言った人は確かにいた。教わったことも、ぜんぶ本当のことだ。
ただ、その人がいたのは、この世ではない。
中身はすべて本当で、器だけが嘘。
「……そうか」
旦那様は、静かに頷いた。
「良い師だったのだな」
その一言が、思いがけない深さで、胸に刺さった。
「……ええ。とても」
声が、わずかに揺れた。揺れたことに、自分で驚いた。祖母のことをこの世界で誰かに「良い師」と言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
旦那様は、それ以上は聞かなかった。ただ、匙を取り直しながら、独り言のように付け足した。
「その、ばあやどのに。……礼を言いたいものだな」
わたくしは、笑って頷いた。頷きながら、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
この方は今、この世にいない人に、礼を言いたいと言った。それは半分、正しく届いている。祖母は確かに、もうこの世にいない。けれどこの方が思い描いている「ばあや」は、わたくしのついた嘘の形をしている。
いつか。
いつか、この方にだけは本当のことを話せる日が来るだろうか。器ごと、ぜんぶ。
その夜の帳簿に、わたくしは初めて、嘘の欄を作った。
ばあやの話、旦那様に。──中身は本当。器だけ、嘘。
嘘の欄は、希望の欄のいちばん遠くに置いた。いつか希望の欄がこの頁まで育ってきたら、そのときが、器ごと話す日なのかもしれない。
翌日の昼、ひと月ぶりの早馬便が、鈴の音とともに城門をくぐった。
王都の匂いのする革袋には、いつもの軍務の文に混じって、社交界の噂を書き連ねた文が、一通、挟まっていた。
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