第十八話 土瓶は、竈の脇に
軟菜の膳が続いて、旦那様の頬には、削げたなりの張りが戻りはじめていた。階段で息が切れるという話も、近頃は聞かない。冬はまだ深いのに、あの方の周りだけ、少しずつ雪解けが進んでいるようだった。
その夜、いつものように盆を支度していると、厨房の入り口でリタが皿を取り落としかけた。
振り向いて、わたくしも手を止めた。
廊下の灯りを背に、旦那様が立っていた。
夜着ではない。昼の軍服のまま、片手にあの小さな盆を提げて。土瓶と伏せた椀の載った、三年分の夜を運んできた盆を。
「……閣下」
ハンナの声が、掠れた。
旦那様は誰にも答えず、厨房を横切って、食堂の長卓の椅子を引いた。初めての夕餉に、わたくしが一人で着いたあの席の向かいに。
「……ここで、いい」
それだけだった。
厨房が、音もなく動き出した。ハンナが竈に鍋を戻し、リタが震える手で膳を整え、テアが食堂の燭台に火を入れて回る。誰も何も言わない。言えば、この時間が壊れてしまうとでも言うように。
わたくしは、いつもの盆をいつもの手順で運んだ。検分の布。先の一匙。違うのは器を置く場所だけ。扉の脇の小卓ではなく、食堂の長い卓の上に。
ゲルト様が呼ばれ、いつもの検分がいつもの手順で行われた。場所が変わっても、決まりは決まりのまま。旦那様はそれを当然のように待ち、わたくしはその律儀さを、もう好ましいものとして眺めている自分に気づいた。
旦那様は、食堂で食べた。
蕪の軟菜と、麦のとろみ粥。匙の運びはいつもどおり静かで、いつもどおり几帳面だった。ただ、燭台の明かりの下で見るその姿は、扉の隙間の暗がりで見てきたどの夜よりも、ずっと、生きている人の姿をしていた。
厨房の陰から、ハンナが見ていた。
前掛けの端を、両手で握りしめて。四十年この城の竈を守り、三年前から若様の膳を作れずにいた人が、食堂で匙を使う後ろ姿をただじっと見ていた。
食事が終わった。
器が空になり、匙が布の上に戻る。柄を揃えて、まっすぐに。
それから旦那様は、傍らに置いていた自分の盆を引き寄せた。
土瓶。艶の出た持ち手。伏せた椀。
立ち上がって、その盆を持ったまま、旦那様は厨房へ入ってきた。ハンナが壁際へ退き、リタが息を呑む。竈の前で足を止めて、旦那様は盆を、わたくしに差し出した。
竈の火が、二人のあいだで爆ぜた。
差し出された盆の上で、土瓶がかたりと小さく鳴った。持ち手の艶が、火明かりを受けて揺れる。この盆の意味を、この厨房にいる全員が知っていた。知っていて、誰ひとり、動けなかった。
「…………」
言葉は、なかった。
わたくしは両手で受け取った。盆は、見た目より軽かった。三年間、夜ごとにこの重さを、あの方は一人で運んでいたのだ。
旦那様はわたくしが受け取るのを見届けると、竈の火に一度だけ目をやって、それから何も言わずに食堂を出ていった。足音が廊下を遠ざかり、階段を上がっていく。
厨房に、竈の火の音だけが残った。
「……奥方様」
ハンナが、震える声で言った。
「それは。その土瓶は、閣下が。この三年、誰にも──それがしにもゲルト様にも、決してお触れにならせなかった……」
「ええ」
わたくしは頷いて、盆から土瓶を取り上げた。
持ち手の艶が、竈の火を映して、飴色に光る。中を検めると、煎じ殻がきれいに洗ってあった。今夜の分を煎じる前に、持ってきたのだ。
薬湯の煎じ方を、わたくしはハンナに聞き、ハンナは涙声で、薬草の棚の場所を教えてくれた。二人で今夜の分を煎じて、湯呑みに注いで、テアが盆に載せて運んでいった。
それから、わたくしは空になった土瓶を洗い、布で拭いて、竈の脇の鉤に掛けた。
鍋たちの隣に、小さな土瓶がひとつ。
明日からは、ここが、この子の帰る場所だ。
夜更けの厨房で、竈の残り火が、飴色の持ち手をやわらかく照らしていた。
その夜の帳簿に、わたくしは長いことかけて、たった一行だけ書いた。
土瓶、竈の脇に。
それ以上の言葉は、要らなかった。
この夜のことは、明くる朝には城のすみずみまで知れ渡っていた。閣下が食堂で膳を召し上がった。夜番の兵から洗濯場の女中まで、誰もが同じ言葉を、同じ声の低さで伝え合った。祝いの言葉にするには、まだ早い。けれど黙っていられることでもない。そういう伝わり方だった。
そして翌晩も、その翌晩も、夕暮れの食堂にあの足音は降りてきた。
幾晩目かの夜。膳を並べ終えたわたくしに、旦那様が、ふいに顔を上げた。
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