第十五話 帳簿の中のひとつの名前
雪に閉ざされた城の冬には、冬の仕事がある。
帳簿の検めも、そのひとつだった。奥向きのことは好きにするがいい──初日にいただいたあの言葉を盾に、わたくしは老家令のヨーゼフに願い出て、台所回りの帳簿を見せてもらうことにした。献立の算段には、台所が何にいくら払っているかを知るのがいちばんの早道だからだ。
ヨーゼフは先々代の頃からこの城に仕えているという、枯れ枝のように痩せた老人だ。無駄口をきかず、廊下では影のように静かで、けれど蝋燭一本の行方まで把握していると下女たちは囁いている。
その几帳面さのとおり、帳簿は年ごと、品ごとに美しく綴じられていた。
「よく、おつけになっているのね」
「恐れ入ります。……数字は、嘘をつきませんゆえ」
窓の外は雪。炉の火が爆ぜる音と、頁をめくる音だけの静かな午後だった。数字を追う仕事は嫌いではない。前世でも献立と栄養価の帳尻を合わせるのは、わたくしの日々の仕事のうちだった。
麦、乳、蜂蜜、根菜、薪。頁を繰るうちに支出の柱がひと目で分かってきた。筆頭は、疑いようもなく──塩だった。
薪よりも、麦よりも高い。台所の払いの三つにひとつが、塩に消えている。
「塩は、それほどのお値段なの」
「北の暮らしは塩で立っておりますゆえ、足元を見られましても、買わぬわけには参りません」
ヨーゼフは眉ひとつ動かさずに言った。足元を見られましても。穏やかな老人の口から出るには、硬い言葉だった。
わたくしは、年ごとの帳簿を並べて、塩の頁だけを追ってみた。
五年前。四年前。三年前。二年前。昨年。
数字は、嘘をつかない。塩の値は、毎年、少しずつ上がっていた。収穫の良し悪しとも、雪の深さとも関わりなく、階段をのぼるように、一段ずつ。そして──三年前から、段の高さが変わっていた。それまでのゆるやかな上がり方が、そこを境に、目に見えて急になっている。
三年前。
その年に何があったかを、わたくしはこの城で聞いて知っている。けれど帳簿は何も語らない。ただ数字が、黙って並んでいるだけだ。
わたくしが三年ぶんの頁を並べて見比べているのに気づくと、ヨーゼフは静かに目を伏せた。気づいていたのだ、この老人も。気づいて、口に出せずにいた。数字は嘘をつかないと言ったのは、そういう意味だったのかもしれない。
「ヨーゼフ。塩の買い付け先を、変えることはできないの? これだけの払いなら、商人同士を競わせれば……」
「それが、できませんので」
ヨーゼフは首を振った。
「塩は王家の勅許の品にございます。扱いを許されているのは、王都のただ一軒。……専売に、ございますよ。奥方様」
専売。
競う相手のいない商い。言い値、というゲルト様の言葉が、これでようやく骨まで見えた。売り手がただ一軒なら、値は天井を知らない。北の領はどれだけ足元を見られても、その一軒から買い続けるほかないのだ。
「その一軒は、なんという商会なの」
「ザルツ商会と申します」
頁をめくる手が、止まった。
ザルツ。
帳簿の払い先の欄に、その名は几帳面な字で、何十回も並んでいた。五年前の頁にも、三年前の頁にも、昨年の頁にも。ザルツ商会、ザルツ商会、ザルツ商会。
──ザルツ男爵家。
王都の社交界で、その家名を知らない者はいなかった。商いで財を成し、爵位を買ったと囁かれる新興の男爵家。そして、その家の令嬢の顔を、わたくしはよく知っている。淡い金の巻き毛。涙に濡れた大きな瞳。
ミレーヌ・ザルツ様。
背中を、細く冷たいものが撫でていった。
落ち着きなさい、と自分に言い聞かせる。王都に商家は星の数ほどある。塩を扱う家と、あの方の家が同じ名なのは、ただの偶然かもしれない。同じ家だとしても、北の塩の値と、わたくしの婚約破棄に、何のつながりがあるというのか。
何も、ないはずだ。
ないはずなのに──胸のざわめきは、頁を閉じても消えなかった。
夕餉の支度に降りた厨房で、ハンナが鍋を任せてくれた。手を動かしていると、頭の中のざわめきは少しずつ底に沈んでいく。台所仕事の良いところだ。刻んで、擂って、漉して。今夜の器を届けて、いつもの一匙と、いつもの「悪くない」をいただいて、いつもの静かな夜が終わった。
部屋に戻ってから、わたくしは自分の帳簿を開いた。灯りの記録と、器の記録の並ぶ、希望の帳簿。その一番うしろの頁に、初めて、希望ではないものを書きつけた。
塩の名は、ザルツ。
三年前から、段が高い。
それだけ書いて、閉じた。数字は嘘をつかない。けれど数字は、まだ何も証してもいない。今のわたくしにできるのは、書き留めておくことだけ。
偶然なら、それでいい。
偶然でないのなら──この城の台所は、わたくしが守る。
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