第十四話 使えない答え
青いものが、ない。蔵の棚を三度あらためても、ない袖は振れなかった。
それなのに──答えなら、知っていた。
麦を水に浸し、暗いところで数日おく。白い芽が伸びる。囓ればみずみずしくて、ほんのり青い味がする。畑がなくても雪に閉ざされても、台所の隅で青いものが育てられる。前世では貧しい冬の知恵として、また船乗りの命を守る知恵として使われてきたやり方だ。
蔵の棚の前に立ったまま、わたくしはその答えを、頭の中で三度たしかめて──三度とも、棚に戻した。
芽出し麦は、家畜の餌にございます。
あの日のハンナの声が、まだ耳にある。胸の前で聖印を結んだ、節くれだった指。幼子に言い聞かせるような、心底からの怯え。どうか、そのようなことは二度と。
使えないのだ。この土地では、あの白い芽は、人の食べものではない。
知っていることと使えることは、違う。前世の知識は、わたくしの中にいくらでもある。けれどそれは、この土地の人たちの心を踏み抜いてまで振るってよい刃ではない。振るえば、九日かけて積んだ厨房の信頼が、一晩で崩れる。
村長の家の、あの女の子の切れた唇を思い出す。
治す方法を、わたくしは知っている。知っているのに、渡せない。
禁忌というものの値段を、わたくしはこのとき初めて胃の底で理解した気がした。
「──さて」
わたくしは声に出して、頭を切り替えた。ないものを数えるのは、そこまで。あるもので立て直すのが、台所の仕事だ。
棚にあるのは、干した香草の束。蔵には根菜──蕪、人参、それから北の甘くない芋。乳と蜂蜜と、麦。
すり流しは、なにも葉物でなくては立たない料理ではない。
「ハンナ、蕪をお願い。芯の白いところを、擂れるだけ細かく」
「擂る……煮るのではなく?」
「煮て、擂って、漉すの。とろとろの、飲むお野菜にするのよ」
厨房が動き出した。ハンナが蕪を擂り、リタが人参を刻み、テアが漉し布を張る。柔らかく煮た蕪を擂って漉すと、驚くほど白く、とろりとした流れものになった。人参は人参で、夕焼け色の一椀になる。
鍋を弱火にかけ直し、乳をほんのすこし足してのばすと、白は白でもふっくらとした白になった。匙ですくうと、とろりと落ちて、跡がゆっくり消えていく。湯気の向こうで甘い土の匂いがする。
「まあ……蕪が、乳みたいに」
リタが漉し布の下の器を覗き込んで、声を上げた。
「根っこのお野菜はね、冬のあいだ、土の下で春の支度をしているの。甘みも滋養も、ぜんぶ根に蓄えて。だから冬の根菜は、地上の葉っぱに負けないくらい、力持ちなのよ」
仕上げに、干し香草をほんのひとつまみ、湯気の上で揉む。乾いた緑の匂いがふわりと立った。舌に届かなくても、鼻には届く緑。今のわたくしに出せる、精いっぱいの「青」だった。
味見の椀は厨房のみんなで回した。ハンナはひと口すすって黙り込み、それから自分の帳面に何かを書きつけた。リタは二口目を所望した。テアに至っては器の底まで匙でさらって、うっとりと息をついた。青いものはなくても、台所は今日もちゃんと戦えている。その手応えがみんなの顔に載っていた。
夜、旦那様の器は、蕪の白いすり流しになった。
乳色から、また少し違う白へ。旦那様は例によって匂いを確かめ、ひと口飲んで、器を少し傾けて中を見た。
「……甘いのか、これは」
「蕪の甘みですわ。……お分かりになります?」
「分からん。だが、重くない。……悪くない」
甘みは、まだ届かない。それでも「悪くない」は、あの方の言葉の帳簿では、かなり上等の部類だ。
器は、今夜も空になった。
翌日の昼、ハンナと蔵の整理をしながら、わたくしは冬の献立の算段を続けていた。根菜は、あとふた月はもつ。香草は心許ない。青みの本物は、やはり雪の下の蕪頼み──それも、数はわずか。
窓の外は今日も雪だった。降っては積もり、積もっては締まって、城の周りの世界がすこしずつ白く狭くなっていく。北の冬は、まだ入口だという。
「昔はねえ」
ハンナが、ふと手を止めて言った。
「冬の半ばになると、山の連中が、青物を売りに来たもんですよ。雪のさなかだっていうのに、妙に青いのやら、酸っぱいのやら」
「雪のさなかに、青いもの?」
わたくしは思わず振り向いた。どうやって。雪と氷の山の中で、いったいどうやって──。
けれどハンナは、我に返ったように首を振って、蔵の戸を閉めた。
「ああいや、お忘れくださいまし。あれは山者の、穢れの民の話。口に入れるものの話じゃございません」
ぴしゃりと閉じられた戸の音が、蔵に響いた。
穢れの民は、雪のさなかに青いものを持っている。
禁忌の向こう側に、冬の青物の知恵を持つ人たちがいる。使えない答えの、そのまた向こうに、まだわたくしの知らない答えがあるのかもしれない。
閉じられた戸の前で、わたくしはしばらく、立ち尽くしていた。
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