第十三話 眠りは台所からもやってくる
その朝の厨房は、いつもどおりに始まった。竈の火が熾き、乳の鍋が湯気を立て、テアが井戸から戻ってくる。何も知らずに蜂蜜の壺を開けていたわたくしのところへ、足音がひとつ近づいてきた。
厨房に、思いがけない客が来たのだ。
ゲルト様だった。武人らしいまっすぐな足取りで竈の前まで来て、それから急に、何をどう言えばいいのか分からなくなったように立ち止まった。
「ゲルト様? どうかなさいました」
「……いえ。その」
ゲルト様は咳払いをひとつして、背筋を伸ばし、まるで戦果でも報告するように言った。
「閣下が、昨夜。灯りを落とされてから、朝まで一度も、お目覚めになりませんでした」
「まあ」
「一度も、です」
念を押す声が、途中でわずかに揺れた。この人がそんな声を出すのを、わたくしは初めて聞いた。
「それは……よろしゅうございました、としか、わたくしには」
「奥方様は、ご存じないでしょうが」
ゲルト様は竈の火を見つめたまま、ぽつりぽつりと話した。
「この三年、閣下の部屋の灯りは、明け方まで消えないのが常でございました。消えたと思えば、廊下を歩き回られる音がする。眠られるのは、空が白んでからのほんの一時。それが三年です。城の夜番は皆、知っております。……昨夜、灯りが早くに消えて、それきり朝まで静かだったと聞いて、それがしは」
言葉が、そこで途切れた。
わたくしは黙って、湯を注いだ白湯の椀を差し出した。ゲルト様は両手で受け取って、一息に飲んで、それでようやく、いつもの顔に戻った。
「夜番の連中が、今朝は皆、妙な顔をしておりました。喜んでいいのか分からん、という顔です。三年も続いたものが終わるときは、そういう顔になるものらしい」
ゲルト様は椀を置いて、それから思い出したように付け加えた。
「……失礼いたしました。それだけ、お伝えに」
一礼して出ていく広い背中を見送りながら、わたくしは、祖母の声を思い出していた。
温かいものをお腹に入れると、人は眠れる。
北へ来る道中、猟師小屋の夜に胸の内で呟いた言葉。もとは前世の、蔵の祖母の口癖だ。冷えと空腹は眠りの敵、あったかい腹は眠りの寝床──理屈より先に、体で知っている人の言葉だった。
眠れない患者さんを、前世の病棟でたくさん見た。痛みで眠れない人、不安で眠れない人。そして、体が冷えて、燃やすものがなくて、眠りたいのに眠りへ落ちる力さえ残っていない人。眠りは体力の配当なのだ。温かい一杯は、その元手になる。
薬でも魔法でもない。眠りは、台所からもやってくる。
その夜から、乳と蜂蜜の一杯は続いた。
三晩、五晩。東翼の角の灯りは、早くに消える夜が少しずつ増えていった。毎晩ではない。遅くまで灯る夜も、まだある。それでも、消える夜が増えていく。帳簿の希望の欄は、灯りの記録で埋まりはじめた。
ハンナは乳の注文を倍にして、取り引きのある牧場の親父に「城の若様がやっと人並みに飯を食う気になったんですよ」と、聞かれてもいないことを喋ったらしい。噂というものは、こうして温かいほうにも転がっていく。
変化は、昼の顔にも表れた。
七晩目の夕方、回廊ですれ違った旦那様の目の下から、あの青黒い影がひとまわり薄くなっていた。頬はまだ削げたまま、手首はまだ細いまま。それでも、目の光の質が違う。研ぎ澄まされた鋭さの奥に、張り詰めていない時間が、少しだけ混ざるようになった。
「……なんだ」
視線に気づいた旦那様が、眉を寄せる。
「いいえ。なんでも」
わたくしは澄まして礼をして、すれ違った。よく眠れていらっしゃいますね、とは言わない。眠りは、指をさされると逃げていく臆病な獣だ。気づかないふりをして、そっと餌だけ置いておくに限る。
夜の受け渡しのとき、旦那様がふと言った。
「……近頃、妙に、朝が早い」
「まあ。お年でしょうか」
「二十八だ」
むっとした声に、わたくしは笑いを噛み殺した。ご本人は、まだ気づいていらっしゃらない。朝が早いのではなく、夜が眠れているのだということに。それでいい。眠りに名前をつけるのは、もっとずっと先でいい。
浮かれかけて、わたくしは前世の職業の癖で、自分を戒めた。眠りが戻りはじめたのは、回復の証であって完成ではない。むしろここからだ。眠れる体は燃やすものを欲しがる。欲しがる体に、次の段の食べものを、切らさず届けなければならない。
順調だった。順調すぎるくらいだった。
だから翌日、次の一段──野菜のすり流しの支度にかかったわたくしは、蔵の棚の前で、はたと足を止めることになった。
青いものが、ない。
干した香草の束と、根菜がいくらか。けれど、すり流しの身上になるような葉物は、蔵のどこにも残っていなかった。雪の下の蕪は、まだ育ちの途中。掘るには早い。
北の冬の本当の顔が、台所の棚から、こちらを見ていた。
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