第十二話 乳色の一杯
その晩の盆は、いつもより少しだけ重かった。
器の中は、重湯の白ではなく、やわらかな乳色。ふうふうしなくていいだけの湯気が、まるい匂いを連れて静かに立ちのぼっている。
厨房では、ハンナとテアが並んで見送ってくれた。初陣にでも出す顔だった。誰もひとことも喋らないのが妙に可笑しくて、そのおかげで少しだけ肩の力が抜けた。
廊下を歩くあいだ、わたくしは自分の足音を数えていた。浮つくな、と自分に言い聞かせるためだ。ただの一杯。段がひとつ上がるだけ。そう思おうとするそばから、匙の鳴る小さな音が胸の鼓動と重なった。
扉は、ノックの前に開いた。
この頃はもう、そうなのだ。わたくしの足音を、あの方は覚えてしまっている。
敷居の内側の椅子に掛け、小卓に盆を置く。旦那様の視線が、器の上で止まった。
「……重湯では、ないのか」
「今夜から、次の一段ですわ」
それだけ言って、わたくしはいつものように、先の一匙を口に運んだ。目を合わせず、短く、事務のように。器を置き直し、布の上に匙を戻す。
旦那様が、器を取った。
節の浮いた指が白い器を包み、持ち上げ──口へ運ぶ手前で一度止まった。
匂いを、確かめている。
鼻先の湯気を、逃さないように。冬の獣が風の中の何かを嗅ぎ分けるときの、あの静かな集中で。まるい、甘い、乳と蜂蜜の匂い。届いている。それが横顔だけで分かった。
湯気は器の上でゆっくり渦を巻いて、あの方の白い息と混ざって見えなくなった。
やがて、器が傾いた。
ひと口。
喉が動いて、止まる。
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ちり、と小さく鳴った。旦那様は器を持ったまま、動かない。目は器の中の乳色に落ちたきり、まばたきさえ忘れたようだった。わたくしも、動けなかった。息の音すら、この沈黙の邪魔になる気がした。
沈黙は長いのに、少しも気まずくなかった。この静けさは空白ではない。三年ぶりの温かさが体の中を通っていく時間を、あの方は全部使って確かめているのだ。急かすものなど、この部屋にはひとつもない。
どれほど経ったのか。
薪がもう一度鳴って、それが合図だったように、低い声が落ちた。
「……温かい」
それだけだった。
器を持つ手の甲に、見て分かるほどのゆるみが走った。ずっと張りつめていた糸が、一本だけほどけた気配がした。
感想でも礼でもない。ただ、体の奥から浮かび上がってきたものが、そのまま言葉のかたちで零れた──そういう、一言だった。
三年。薬湯の苦さと冷えた夜だけで数えてきた三年の底から、いちばん最初に浮かんできた言葉がそれなのだ。
わたくしは、何も言わなかった。言ってはいけない場面が、この世にはある。
旦那様は、二口目を飲んだ。三口目は少し早かった。器の傾きが深くなり、喉が続けて動いて、やがて器の底が天井を向いた。
空になった器を、旦那様はしばらく両手で包んでいた。
まだ温もりの残る器を、手放しかねるように。かじかんだ手を焚き火にかざす人の、あの手つきで。
それから器を盆に戻し、匙を布の上へ。柄を揃えて、まっすぐに。
「…………」
何か言いかけて、旦那様は口を閉じた。灰色の目が一度わたくしを見て、器を見て、また、わたくしを見た。
「……明日も、これか」
「お望みでしたら」
「…………そうか」
耳の先が、ほんのわずかに赤く見えたのは、暖炉の火のせいかもしれない。そういうことにしておいて差し上げるのが、妻の礼儀というものだろう。
それきり、旦那様はそっぽを向いた。お望みだ、ともお望みではない、とも言わずに。けれど、わたくしは聞き逃さなかった。明日も、と。あの方が初めて、明日の器のことをご自分から口にした。
一礼して、廊下に出る。扉が閉まる。
角を曲がったところで、わたくしは壁に背をつけて、天井を仰いだ。
温かい──。
あの一言を、胸の中でもう一度だけ転がす。三年ぶりの温かいものは、味よりも、言葉よりも先に、あの方の体をまっすぐ通っていった。そうして、どの器官よりも先に、たった一つの言葉を連れて戻ってきたのだ。
厨房へ戻って空の器を見せると、テアは両手で口を押さえ、ハンナは前掛けで目頭をぐいと拭って、そのまま竈へ向き直った。
「……明日の乳を、多めに頼んでおきましょうかね」
ぶっきらぼうな声が、少しだけ湿っていた。
浮かれてはいけない。段は、まだ二段目。
分かっているのに、廊下を戻る足が、どうしても軽くなる。
寝る前に、自分の部屋の窓から東翼の角を見上げるのが、いつのまにか癖になっていた。
その夜──旦那様の部屋の灯りは、いつもの半分も経たないうちにふっと消えた。
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