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第四十五話 それぞれのただいま

 春の最初の柔らかい雨が降った日、冬鈴館にはいくつもの「ただいま」が重なった。


 アルノルトが北境の短期視察から戻った。


 帰還予定表より半日早い。だが、彼は玄関に入る前にまず紙へ時刻を書いた。リュシーとの約束だからだ。


「ただいま戻りました」


 リュシーは走りかけて、途中で止まった。


「走りすぎない」


 自分で言ってから、早歩きでアルノルトの前へ行く。


「へやの温度、みる?」


「はい」


 二人は外套も脱ぎきらないうちに、リュシーの部屋へ向かった。


 次に、ギルベルトが面会に来た。


 今日の木彫りは、小さな棚だった。リュシーの新しい棚を聞いて、練習したらしい。形は少し歪んでいるが、段は三つある。


「ただいま、ではないな」


 彼は玄関で少し迷った。


 リュシーは考えた。


「おとうさまは、こんにちは」


「そうだな。こんにちは」


 その距離が、今の二人にはちょうどいい。


 リリアからも手紙が来た。


 修道療養院で、白い布の講習が始まったという。手紙の最後には短く書かれていた。


『私は、ここでただいまと言える場所を作り直しています』


 私はその文を読み、返事に迷った。


 結局、こう書いた。


『眠れた子の記録を送ります。作り直す場所が、誰かの部屋を奪わない場所であることを願います』


 厳しいかもしれない。


 でも、今の私に書ける誠実な言葉だった。


 夕方、エルミーヌ公爵夫人がルシアンの部屋の写真絵を持ってきた。扉に木札が戻り、窓辺に小さな花が置かれている。


「ただいまと言うには、まだ時間がかかりますわ」


「言わなくても、置いておけます」


「ええ」


 彼女は冬鈴館の会議室に新しい木札を寄付した。無地の札だ。誰の名前でも書けるように。


 その夜、食堂には多くの人がいた。


 アルノルト、リュシー、ハンナ、マーサ、ミレーヌ、セドリック、ギルベルト、子どもたち、保護者たち。


 全員が家族ではない。


 許し合ったわけでもない。


 でも、それぞれの距離で同じスープを飲んでいる。


 リュシーが言った。


「ただいま、いっぱい」


「そうね」


「リュシーのただいまは?」


「どこだと思う?」


 娘は自分の部屋の方を見た。


「へや」


「ええ」


「でも、ここも」


「食堂も?」


「うん。スープある」


 私は笑った。


 部屋は寝る場所だけではない。


 帰ってきたと言える場所。


 温かいものを食べられる場所。


 嫌だったと言っても、明日また席がある場所。


 第二章の終わりに、私たちはようやくその広さを知り始めていた。




 食後、ギルベルトはリュシーの新しい棚を見た。


 そこに自分の下手な兎が置かれていることに気づき、しばらく黙った。


「これは、置いてよいのか」


 リュシーは頷いた。


「リュシー、きめた」


「そうか」


「でも、へた」


「分かっている」


 ギルベルトは笑ったが、目元は少し赤かった。


 棚に置かれたことは、許しではない。


 けれど、娘が今の父親の練習を自分の部屋に少しだけ置くと決めた。その事実を、彼は重く受け取っていた。


 アルノルトはそれを離れた場所から見ていた。


 嫉妬でも、警戒でもない。リュシーの選択を確認する目だった。


 この家の大人たちは、娘の部屋に何が置かれるかを支配しない。


 見守り、必要なら安全を整え、本人に聞く。


 それが、私たちの新しい家族の形になっていた。


 夜、リュシーは棚に向かって小さく言った。


「ただいま」


 棚は返事をしない。


 でも、部屋全体がその言葉を受け取ったように、暖炉の火が静かに揺れた。


 その晩、リュシーは珍しく寝つく前に泣いた。


 悲しいのではなく、疲れたのだと思う。大人が多く、ただいまが多く、部屋の中の出来事が多すぎた。


「リュシー、うれしい。でも、いっぱい」


「いっぱいだったわね」


「おとうさまのうさぎも、アル父さまのかえってくるも、リリアのぬのも、こうしゃくふじんのふだも、ぜんぶ」


「全部、今日しまわなくていい」


 私は棚の空箱を指した。


「迷うものは、ここへ置きましょう。心の中にも、空箱を作っていいのよ」


 リュシーは涙を拭いた。


「こころの、からばこ」


「ええ」


「おかあさまも?」


「私も」


 娘は布兎を抱きしめ、少しずつ呼吸を整えた。


「じゃあ、今日は、ねる」


「それが一番いいわ」


 廊下へ出ると、アルノルトが静かに待っていた。


「眠れそうですか」


「ええ。今日は心の空箱が必要でした」


 彼はすぐには笑わず、真面目に頷いた。


「それは大人にも必要ですね」


「あなたの机にも置きますか」


「お願いします。北境の案件を全部入れてしまいそうですが」


「箱を増やしすぎるのは禁止です」


 彼はそこでようやく笑った。


 日常とは、すべての問題が片づいた状態ではない。片づいていないものを置く場所があり、それでも眠れる夜のことだ。


 翌朝、リュシーは棚の前で私に言った。


「きのう、いっぱいだった。でも、ねたら、ちょっと、すくなくなった」


「眠ると、心の箱も少し整理されるのね」


「うん。だから、またいっぱいの日も、ねる」


 私はその言葉を聞いて、第二章で私たちが得たものを理解した。部屋を守るとは、一度勝って終わりではない。多すぎる日を越えるために、眠れる場所を毎日整えることなのだ。

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