最終話 誰にも奪わせない
冬鈴令が正式に施行された日の夜、冬鈴館には大きな祝宴はなかった。
子どもたちは疲れていたし、冬はまだ終わっていない。浮かれすぎれば、明日の薬や寝具の確認を忘れる。
だから、夕食はいつものスープに、少しだけ特別な丸パンを添えた。
マーサが焼きりんごも出してくれた。
リュシーはそれを見て、満足そうに言った。
「きれいなおかしじゃない。でも、あったかい」
「最高の褒め言葉です」
マーサが笑った。
食後、冬鈴館の廊下を歩いた。
木札が並んでいる。
リュシー。
ニコ。
ミーナ。
ユーリ。
クララ。
空き札もある。まだ名前のない子のための札だ。勝手に番号を入れるのではなく、来た子が自分の印を選べるように。
私は一枚一枚を見ながら、二年前の朝を思い出した。
夫に、娘の部屋を明け渡せと言われた。
あの時、私はリュシーだけを抱いて逃げた。
それでよかった。
まず逃げなければ、娘は守れなかった。
けれど今、私は逃げるだけではなく、部屋を増やす方法を知った。
書類を書く人がいる。
布を縫う人がいる。
パンを焼く人がいる。
木札を削る人がいる。
父親が薬帳を読む。
公爵夫人が失われた子の札を戻す。
かつて部屋を欲しがった女性が、白い布を縫う。
国の標準票にも、名前を書く欄ができる。
完璧ではない。
明日も問題は起きるだろう。
新しい制度を面倒だと言う人もいる。記録を省こうとする人もいる。善意を利用する人も、母親を疑う人も、また現れるかもしれない。
それでも、止めるための言葉ができた。
冬鈴令。
小さな花の名前をした規則。
リュシーの部屋へ入ると、娘は布団の中でまだ起きていた。
「ねむれない?」
「ちょっと」
枕元には、布兎、ギルベルトの下手な兎、アルノルトの帰還予定の紙、冬鈴令の子ども向け冊子が並んでいる。
物が増えた。
どれも、娘が置くと決めたものだ。
「おかあさま」
「なあに」
「リュシーのへや、もう、とられない?」
私は寝台のそばに座った。
この問いは、きっと何度も戻ってくる。
完全に消えることはない。
あの朝の冷えは、娘の中にも残っている。
だから私は、何度でも答える。
「勝手には、誰にも奪わせない」
「かってにじゃなかったら?」
「あなたに聞く。あなたの体を見る。安全を考える。お母さまだけでなく、アル父さまも、ハンナも、マーサも、冬鈴館のみんなも、冬鈴令も、一緒に考える」
「リュシー、いやです、いえる?」
「言える」
「いらっしゃいも?」
「言える」
リュシーは安心したように息を吐いた。
「じゃあ、だいじょうぶ」
「ええ」
アルノルトが扉の外から声をかけた。
「部屋の温度を見ても?」
「どうぞ」
彼はいつものように許可を取って入ってきた。
温度計を確認し、窓の隙間を見て、暖炉の火を少しだけ弱める。
「ちょうどいいです」
リュシーが眠そうに言った。
「アル父さま、かえってきたら、みる」
「はい。これからも」
私は二人を見た。
夫の後悔で始まる溺愛の物語ではない。
娘の死で開く物語でもない。
娘が生きて、嫌だと言い、時には誰かを招き、大人たちが失敗しながら部屋を整える物語だ。
部屋の外では、ハンナが夜の記録をつけている。
マーサは明日のスープの豆を水に浸している。
ミレーヌは施行初日の記録票を三部複写している。
星の部屋ではニコが眠り、丸パンの部屋では明日のパン生地が発酵し、北境へ向かう荷箱には選べる保温布が詰められている。
娘の部屋は、ひとつだ。
でも、そのひとつを守ったことで、たくさんの部屋へ灯りが移った。
リュシーの寝息が、ゆっくりと規則正しくなる。
私はその寝息を聞きながら、台帳を開いた。
『冬鈴令施行初日。リュシー、二十時就寝。室温ちょうどいい。本人申告――だいじょうぶ』
少し迷ってから、もう一行加えた。
『誰にも、勝手には奪わせない』
ペンを置く。
窓の外では、雪がやんでいた。
春はまだ遠い。
けれど、部屋は温かい。
それで、今夜は十分だった。
翌朝、冬鈴館の玄関には新しい掲示が出た。
『冬鈴令、今日から始まります』
リュシーはその下に、小さな紙を貼った。
『いやですも、いらっしゃいも、ききます』
字は少し傾いていた。けれど、通りかかった保護者たちは足を止めた。パン屋の妻は笑い、洗濯屋の夫は頷き、エルミーヌ公爵夫人はしばらくその紙を見つめていた。
ギルベルトは紙の端が浮いているのに気づき、黙って押さえ直した。
アルノルトはリュシーに尋ねた。
「ここに貼ってもよろしいのですか」
「うん。リュシー、きめた」
「では、雨に濡れないよう、覆いをつけましょう」
大工のトマスがすぐに小さな庇を作った。
子どもの紙に、大人が庇をつける。
それは冬鈴令そのもののようだった。
子どもが言う。
大人が聞く。
そして、雨や雪で消えないように手を動かす。
その繰り返しを、これからも続けていく。
第二章完
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