第四十話 春を待つ部屋
冬鈴令の草案が貴族院を通過したのは、雪が雨に変わり始めた頃だった。
まだ正式施行ではない。
だが、王立移管令は撤回され、冬鈴館は独立したまま、王立認定を受けることになった。分散型療養室は、冬鈴令の試行制度として継続する。
王立医務局は、標準記録票の改訂を始めた。
エルミーヌ公爵夫人は後援会を再編し、標準毛布の単独契約を見直した。
カミーユ補佐は正式な処分を受け、医務局の要職を外れた。ただし、彼が提出した標準票改訂資料は、監査官の判断で検討材料に残された。
すべてが綺麗に解決したわけではない。
制度は遅い。
人は簡単に変わらない。
それでも、冬鈴館の廊下には春を待つ匂いがあった。
ある朝、クララの母親が初めて本館へ来た。
産後の体調が少し戻り、短い面会ならできるようになったのだ。
彼女はクララを抱いた瞬間、泣き崩れた。
「私がそばにいなかったから」
その言葉を聞いた時、私は昔の自分を思い出した。
母親は、そばにいられなかった時間まで自分の罪にしてしまう。
「クララは、あなたを待っていました。でも、あなたが倒れることを望んではいません」
彼女は涙の中で頷いた。
クララは白い保温布に包まれ、母親の胸で眠った。
面会記録には、こう書かれた。
『母親、十五分抱く。クララ、呼吸安定。母親の休息計画も必要』
母親の休息まで記録する。
それは冬鈴令の新しい項目だ。
午後、リュシーと私は温室の冬鈴草を見た。
花は少しずつ増えている。
「おかあさま、春?」
「まだ少し先ね」
「でも、雪、少ない」
「ええ」
リュシーは鉢を一つ選んだ。
「これ、星の部屋にあげる」
「本当にいい?」
「うん。リュシー、えらんだ」
私は笑った。
娘は何かを渡す時、必ずそう言うようになった。
奪われたのではない。
選んだ。
その違いを、自分で確かめるために。
夕方、アルノルトが北境からの報告を読んだ。
冬鈴令の試行版が北境にも届き、村の避難所で名前札と足先記録が始まったという。凍った靴の件を受け、地域別基準も見直される。
「春になったら、一度北境へ行く必要があります」
彼が言った。
リュシーはすぐに顔を上げた。
「アル父さま、いく?」
「はい。ですが、今度は紙を書きます」
「かえってくるための?」
「そうです」
リュシーは真剣に頷いた。
「へやの温度、みる、かく」
「必ず」
以前なら、その話だけで不安が広がった。
今も不安はある。
けれど、私たちは不安を紙に置く方法を少し覚えた。
夜、リュシーの部屋で、私は娘の手を握った。
「おかあさま」
「なあに」
「冬鈴令、できたら、へや、ぜったい、なくならない?」
私はすぐに「絶対」とは言わなかった。
「なくそうとする人が出ても、止める方法が増えるわ」
「ぜったいじゃない?」
「大人が、守り続ける必要がある」
リュシーは少し考えた。
「じゃあ、リュシーも、いやです、いう」
「ええ。言っていい」
「おかあさまも、きく」
「聞くわ」
春を待つ部屋で、娘は眠った。
法律ができても、毎晩の確認は変わらない。
部屋の温度。
子どもの寝息。
明日の予定。
守ることは、続けることだ。
冬鈴令の研修も始まった。
最初の参加者は、王立療養院の若い看護師たちと、分散型療養室の担当者たち。講師は医師だけではない。マーサがスープを教え、洗濯屋の夫が保温布の乾かし方を教え、ルイーズが木札の安全基準を教えた。
私は最後に、記録票の使い方を説明した。
「全部を綺麗に埋めることが目的ではありません。子どもが眠れない理由を探すための紙です。空欄があっても、聞こうとした跡があれば次につながります」
若い看護師が手を挙げた。
「忙しい時、本人の言葉を聞く時間が取れない場合は?」
「その時は、聞けなかったと書いてください。そして、次に聞く時間を決める」
聞けなかったことまで記録する。
それは小さな正直さだ。
正直な空欄は、嘘の丸印より子どもを守る。
研修の最後、参加者全員に同じ質問をした。
「あなたが眠れない時、何を聞かれたいですか」
答えはばらばらだった。
寒いか。
痛いか。
水がいるか。
一人にしてほしいか。
誰かにいてほしいか。
大人たちは、自分の答えを書いてから少し黙った。
自分たちでさえ違う。
ならば、子どもが違うのは当然だ。
研修の締めくくりに、ルイーズが言った。
「標準とは、同じ答えを押しつける紙ではなく、違う答えを聞き漏らさないための紙にします」
その言葉に、私は深く頷いた。
「なくならないように、みんなで見るの」
私が答えると、リュシーは少し眉を寄せた。
「ぜったいじゃない?」
「絶対と言うだけでは守れないわ。だから、紙に書く。人を増やす。嫌だと言う。休む。何度も見る」
娘は長く考え、やがて頷いた。
「じゃあ、リュシーも、みる」
「ええ。でも、眠る時間は眠って」
「それも、みる?」
「それも見ることね」
リュシーはその夜、眠る前に棚の空箱を見た。
「春になったら、なに入れる?」
「決めていないものを入れる箱でしょう?」
「うん。でも、春のもの、あるかな」
「きっとあるわ。花かもしれないし、手紙かもしれないし、何も入れないままかもしれない」
「何も、でもいい?」
「いいの。空いている場所があると、後で選べるから」
リュシーは満足したように目を閉じた。
冬を越すための部屋には、春を待つ空き場所も必要なのだと思った。




