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第三十八話 エルミーヌの木札

 ルシアンの木札は、しばらく冬鈴館の子ども会議室に掛けられていた。


 エルミーヌ公爵夫人は、会議のたびにそれを見る。


 最初はつらそうだった。二度目は目を逸らした。三度目には、札の埃を自分で払った。


 四度目の会議で、彼女は言った。


「この札を、私の屋敷へ戻そうと思います」


 リュシーが顔を上げた。


「なくす?」


「いいえ。戻すの。息子の部屋だった場所へ」


 部屋が静かになった。


 公爵夫人は続けた。


「私は、息子の部屋を消せば、悲しみも整理できると思っていました。でも、消した部屋の代わりに、他の子どもの部屋まで番号にしようとしていたのかもしれません」


 彼女はルシアンの札を両手で持った。


「戻しても、息子は戻りません。けれど、名前を消さない練習をしたい」


 誰もすぐには話さなかった。


 やがてリュシーが言った。


「ひも、あたらしくする?」


 公爵夫人は瞬いた。


「そうね。古い紐は切れそうですものね」


「トマス、できる」


 大工のトマスは会議室の端で作業していた。名前を呼ばれると、黙って頷いた。


 新しい紐は、柔らかく丈夫なものを選んだ。角は削らない。古い傷も、そのまま残す。安全のために裏側だけ補強する。


 リュシーは作業を見ながら言った。


「なおす、でも、かえない」


「そうですね」


 公爵夫人は静かに答えた。


 その午後、私は公爵邸へ同行した。


 以前見た子ども部屋だった客間は、相変わらず整いすぎていた。花も玩具もない。だが、窓辺に小さな机が戻されていた。


 エルミーヌ公爵夫人は扉の前に立ち、長い間動かなかった。


「入りますか」


 私が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


 部屋の中は暖かかった。


 暖かすぎない。


 窓が少し開けられ、空気が動いている。彼女は冬鈴館で学んだ換気の方法を使ったのだろう。


 扉の内側に、ルシアンの札を掛けた。


 公爵夫人の手は震えていた。


 掛け終えると、彼女は椅子に座り、顔を覆った。


 泣き声は出なかった。


 ただ、肩が震えた。


 私はそばに座ったが、慰めの言葉は言わなかった。


 しばらくして、彼女は言った。


「私は、息子に暑いか寒いかを何度も聞いたつもりでした。でも、本当に聞いていたのか分からない。自分の恐怖を聞かせていただけかもしれない」


「私も、リュシーを守る時に、自分の恐怖を重ねすぎることがあります」


「あなたでも?」


「ええ。だから、娘に聞き返されます。お母さまのためではなく、リュシーのため? と」


 公爵夫人は涙を拭いた。


「厳しい娘さんね」


「はい」


 その日以降、エルミーヌ公爵夫人は冬鈴令の条文に、喪失児の部屋についての項目を加えることを提案した。


 亡くなった子どもの持ち物を、保護者がどう扱うか。


 残すこと、片づけること、誰かに譲ること。


 どれも正解はない。


 ただ、周囲が急かさないこと。


 悲しみを理由に、他の子どもの権利を奪わないこと。


 その項目は短いが、重かった。


 リュシーは後で聞いた。


「ルシアンのへや、できた?」


「戻ったわ」


「よかった?」


「よかったかどうかは、公爵夫人が決めることね。でも、なくならなかった」


 リュシーは頷いた。


「なくならない、だいじ」


 その通りだ。


 生きている子の部屋も、失われた子の名前も、勝手になくしてはいけない。




 公爵邸から戻る馬車の中で、エルミーヌ公爵夫人は小さく言った。


「私は、息子の名を口に出すのが怖かった」


「はい」


「名を呼べば、いないことがはっきりする。でも、呼ばなければ、いたことまで薄れていく」


 私は窓の外を見た。


 冬鈴館では毎日名前を呼ぶ。体温を測る時も、食事を出す時も、寝台を確認する時も。


 呼ばれる名前があることは、生きている子には安心になる。


 失われた子には、存在の証になる。


「冬鈴令に、亡くなった子の記録を保護者が閲覧できる項目を入れましょう」


 私が言うと、公爵夫人は少し驚いた。


「記録を?」


「はい。消すのではなく、望む時に読めるように。もちろん、望まない人には強制しない」


 彼女は長く黙り、やがて頷いた。


「それは、必要です」


 悲しみもまた、勝手に片づけてはいけない部屋だった。



 ルシアンの部屋に新しい花を置いたのは、公爵夫人自身だった。


 豪華な薔薇ではなく、小さな冬鈴草。


「息子は、もっと派手な花が好きだったかもしれません」


「では、次はその花を」


「次、ですか」


「一度で決めなくていいと思います」


 公爵夫人は花瓶を見つめた。


「そうね。悲しみの部屋も、一度で整えなくてよいのね」


 その言葉は、冬鈴令の条文にはならない。


 でも、彼女が他の母親へ向ける目を少し柔らかくするには、十分だった。


 その項目は、誰かを責めるためではなく、残された大人を番号の中へ追い込まないためのものだった。


 公爵夫人は草案の端に、震える字で書いた。


『片づけることと、消すことは違う』


 私はその文を残した。


 亡くなった子の部屋にも、奪ってはいけない名前がある。生きている子の部屋を守る制度は、その悲しみから目を逸らしてはならなかった。

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