第三十六話 王宮から来た小さな患者
冬鈴令の試行が始まって二週間後、王宮から密やかな相談が届いた。
王族の遠縁にあたる五歳の男の子、フィリップが冬の咳をこじらせている。王宮内の医師は十分にいる。部屋も暖かい。だが、本人が食事を拒み、夜に眠れないという。
相談文には、こうあった。
『冬鈴館式の聞き取りを希望する。ただし、王族待遇は不要』
私は文面を二度読んだ。
王族待遇は不要。
その一文を書くまでに、王宮内でどれほど議論があったのか想像できる。
フィリップは、冬鈴館本館ではなく、白い机の部屋へ来ることになった。
理由は単純だ。彼は医師の近くにいる方が安全で、夜間宿泊ではなく日中の聞き取りから始めるからだ。王族の遠縁だから特別な部屋を用意することはしない。
到着したフィリップは、小さな礼服を着ていた。
顔色は悪く、唇は固く結ばれている。付き添いの侍従は、彼を丁寧に扱いすぎていた。椅子に座る時も、カップを持つ時も、先回りする。
私はフィリップに目線を合わせた。
「ノエリアです。今日は、あなたが眠れない理由を一緒に探します」
彼は黙っている。
「話したくなければ、絵でもいい。首を振ってもいい」
少し間を置いて、彼は言った。
「ここは、王宮じゃない」
「そうね」
「ぼく、王宮の子です」
「今日は、冬の咳がある子として来ました」
侍従が慌てて口を開きかけたが、アルノルトが視線だけで止めた。
フィリップは私を見た。
「王宮の子じゃない?」
「王宮の子でもあります。でも、今ここでは、寒いと咳が出る五歳の子です」
彼の表情が少し揺れた。
聞き取りは難航した。
寒いかと聞けば、寒くないと言う。
暑いかと聞けば、暑くないと言う。
食べたいものはない。嫌なものもない。怖いものもない。
すべて、ない。
リュシーなら、こういう時どうするだろう。
そう思った時、娘が白い机の部屋の入口から顔を出した。
もちろん、事前に許可を取っている。リュシー自身も、短い時間だけなら会いたいと言った。
「こんにちは」
リュシーが言う。
フィリップは彼女を見た。
「君、だれ」
「リュシー」
「王宮の子?」
「ちがう。リュシーのへやの子」
その返事に、フィリップは少し戸惑った。
リュシーは自分の会議札を見せた。
「いやなこと、かく?」
「ない」
「ないの、いや?」
フィリップは黙った。
リュシーは首を傾げた。
「リュシー、きれいなおかし、いやだった」
「お菓子が嫌なの?」
「おかしはすき。でも、へやにいったら、たくさんあるって、いやだった」
フィリップの眉が少し動いた。
「ぼくも、食べたら元気になるって言われる」
「いや?」
「食べられないと、みんな困る」
「こまるの、いや?」
「うん」
それが入口だった。
フィリップは少しずつ話した。
王宮の部屋は暖かすぎる。
咳をすると侍従がすぐに医師を呼ぶので、咳を我慢する。
食事を残すと料理人が叱られると思い、皿を見るのが嫌になる。
夜、扉の外に立つ衛兵の靴音が怖い。
王宮の子だから大丈夫と言われるのが、一番嫌だ。
ユーリと同じだった。
役割が先に来ると、子どもの痛みは後回しになる。
私は侍従に言った。
「まず、食事量を減らしましょう。残しても誰も叱られないと本人に説明してください。咳をしたら大騒ぎせず、決めた手順で確認する。夜の靴音は、扉から離れた場所に立つか、柔らかい靴底に変える」
侍従は青ざめながらも書き取った。
「王宮で、そのような」
「王族待遇は不要とありました」
彼は口を閉じた。
フィリップは帰る前に、リュシーへ言った。
「リュシーの部屋の子って、何?」
リュシーは少し考えた。
「へやがある子」
「ぼくも?」
「あるなら、そう」
「王宮にも?」
「きいてもらえるなら」
フィリップは頷いた。
数日後、王宮から報告が来た。
食事量は少ないが、食べられるようになった。
咳を我慢しなくなった。
夜間の靴音を変えたら、眠るまでの時間が短くなった。
王宮の子にも、部屋が必要だった。
それは冬鈴令にとって大きな意味を持った。
身分に関係なく、子どもは子ども。
王宮でも、パン屋の二階でも、北境の村でも、まず名前を聞く。
その原則が、また一つ強くなった。
フィリップの報告は、王宮内で思わぬ反響を呼んだ。
王族の子どもでさえ、靴音が怖いと言えなかった。
その事実は、下級貴族や平民の親たちにも届いた。身分が高ければ安心できるわけではない。立派な部屋なら眠れるわけでもない。
後日、王宮の侍従長から礼状が来た。
『柔らかい靴底を導入しました。夜間巡回の音が減り、子どもだけでなく老いた侍女も眠りやすくなったとの報告があります』
リュシーはそれを聞いて笑った。
「おばあさまも、ねむれる?」
「そうみたいね」
「じゃあ、くつ、おとなも」
子どものために変えたことが、大人も助ける。
冬鈴令は、そういう形で広がり始めた。
誰かを特別扱いするためではなく、誰も自分の不快を飲み込まなくて済むように。




