第四話 侯爵家の冷えた夜
ノエリアが屋敷を出た日の夜、レーヴェルト侯爵邸の南翼は、いつもより騒がしかった。
ギルベルトは執務室で報告書を読んでいるふりをしていた。文字は目に入っている。だが、一行も頭に残らない。机の端には、ノエリアから返ってきた短い手紙が置かれていた。
『私は娘の部屋ではなく、娘の人生を守るために出ました』
その一文が、腹立たしいほど静かだった。
怒鳴り返す余地がない。泣き言でも、恨み言でもない。まるで法院へ提出する証言のように、淡々としている。
「旦那様」
扉の外から家令ボルクの声がした。
「リリア様がまた寒いとおっしゃっています。魔術師を呼びましたが、保温石に異常はないとのことです」
「暖炉を焚け」
「すでに薪を足しております」
「では毛布を」
「三枚重ねております」
ギルベルトは舌打ちをした。
南翼の療養室は、ノエリアが作った部屋だ。あの女は何か細工をしたのではないか。そう考えかけて、彼はすぐに否定した。ノエリアはそんな陰湿な真似をする女ではない。
それが分かっていることも、また苛立たしかった。
療養室へ向かうと、廊下からすでに熱気が漂っていた。暖炉を必要以上に焚いているせいで、空気は乾き、壁際の花瓶の水まで温くなっている。それなのに寝台の上のリリアは、青白い顔で毛布にくるまっていた。
「ギル……」
彼女が細い声で呼んだ。
「寒いの。どうしてかしら。ノエリア様がいた時は、こんなに寒くなかったのに」
その名を出され、ギルベルトは胸の内側を軽く叩かれたように感じた。
「医師は何と言っている」
「長旅の疲れだろうと。でも、ノエリア様の魔法なら、きっとすぐに楽になるわ」
リリアは目を伏せた。
「わたしのせいで、奥様とお嬢様が出ていかれたのね」
「君のせいではない。ノエリアが勝手に感情的になっただけだ」
言った瞬間、廊下の方で誰かが小さく息を呑んだ。振り返ると、若い給仕が目を伏せていた。昨朝の食堂にいた給仕だ。
ギルベルトは不快になった。
使用人まで、ノエリアの味方をするのか。
彼女はいつもそうだった。特に目立つわけではないのに、気づけば周囲が彼女の言葉を聞く。薬の時間、暖炉の温度、食事の内容、寝具の干し方。小さな決まりを一つずつ作り、誰も逆らえないようにする。
神経質で、細かく、退屈な女。
そう思っていた。
なのに、彼女がいなくなった途端、屋敷の空気は乱れた。
「旦那様、北翼の客間の煙道から煤が落ちております」
「旦那様、薬草茶の配合表が見当たりません」
「旦那様、お嬢様の食事係が、療養食の作り方を知らないと……」
「リュシーはもういないだろう」
そう答えてから、ギルベルトは自分の声に驚いた。
いない。
リュシーは、もうこの屋敷にいない。
小さな手を伸ばした娘の姿が、脳裏に浮かんだ。朝の療養室で、布兎を抱いて自分を見ていた。あの子は何かを言おうとしていたのだろうか。
ギルベルトはその手を見なかった。
ノエリアの書類を見ていた。
家令ボルクが咳払いをした。
「旦那様、明日にはヴァイス伯爵家へ正式な抗議文をお送りすべきです。夫に無断で妻が出奔し、子を連れ去ったとなれば、相手方にも非がございます」
「そうだな」
ギルベルトは頷いた。
そうだ。これは連れ去りだ。妻が夫の権限を無視した。侯爵家の秩序を乱した。まずはそこを正さなければならない。
そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。
だが、窓の外では雪が降り始めていた。
南翼の療養室の暖炉は赤々と燃えている。けれど、部屋の隅にはまだ冷えが残っていた。リリアが震えるたび、ギルベルトはノエリアの手紙を思い出す。
娘の人生を守る。
彼女はそう書いた。
ギルベルトは、その言葉がなぜ自分を責めているように感じるのか、まだ分からなかった。




