第三話 あたたかい部屋と初めての味方
ヴァイス伯爵家の旧温室館に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
旧温室館は、王都から半日ほど離れた丘の上にある。もともとは祖母が薬草を育てるために使っていた別邸で、今は管理人夫婦が細々と手入れをしているだけの場所だ。
大きな屋敷ではない。
けれど、南側には硝子張りの温室があり、日差しがよく入る。古い暖炉も残っている。リュシーを休ませるには、侯爵家の北翼の客間よりずっといい。
「お嬢様、よくお戻りになりました」
管理人のマーサが、涙ぐみながら出迎えてくれた。
お嬢様と呼ばれたのは久しぶりだった。嫁いでからの私は、侯爵夫人であり、奥様であり、ギルベルトの妻だった。
でも、そのどれも今は少し重い。
「急にごめんなさい。しばらく世話になります」
「何をおっしゃいます。ここは奥様のご実家の持ち物です。お嬢様とお嬢様のお嬢様が休まれるのに、遠慮なんて要りません」
マーサはリュシーを見て、表情を柔らかくした。
「まあまあ、小さな手が冷えていますね。すぐに火を入れましょう」
私はリュシーを客間の寝台に座らせた。
部屋には少し埃の匂いがしたが、窓辺には日が差し、古い木の床がほのかに温まっている。私は暖炉に手をかざし、残っている熱を探した。
古い家には、熱の癖がある。
どこから冷えるか。どの壁が熱を逃がすか。どの石が昼の光を覚えているか。
私の魔法は、それを読むことができる。
派手な炎は出せない。傷も癒せない。でも、冷えた指先に少しずつ温もりを戻すことならできる。
「リュシー、ここは寒い?」
娘は布兎を抱いたまま、首を振った。
「さむくない」
「よかった」
「おかあさま、ここ、リュシーのおへや?」
「そうよ。今日からしばらく、ここがリュシーのお部屋」
リュシーは部屋を見回した。硝子窓の向こうに、枯れかけた薬草棚が並んでいる。冬なので花は少ないが、温室の奥に白い小花がいくつか残っていた。
「あれ、おはな?」
「冬鈴草ね。寒い時期にも咲く花よ」
「つよいの?」
「ええ。小さいけれど、とても強い花」
リュシーは少しだけ笑った。
その笑顔を見ただけで、私は胸の奥から力が抜けていくのを感じた。
まだ何も解決していない。
離縁調停はこれからだ。ギルベルトが娘の親権を主張する可能性もある。侯爵家の使用人たちが、私を悪く言うかもしれない。社交界では「病弱な幼馴染に嫉妬して出ていった妻」と噂されるだろう。
それでも、今この部屋でリュシーが寒くないと言った。
それだけで、出てきた意味はある。
昼食には、マーサが野菜と鶏肉を柔らかく煮たスープを出してくれた。リュシーは最初、見慣れない食器に戸惑っていたが、私が一口食べて見せると、おそるおそるスプーンを握った。
「おいしい」
「そう。よかった」
「おかあさまも、たべて」
「食べているわ」
「もっと」
娘に促されて、私はスープをもう一口飲んだ。
温かい。
ただのスープなのに、喉を通るたび体の中でこわばっていたものがほどけていく。侯爵家では、いつもリュシーの食事と薬の時間ばかり気にして、自分が何を食べているのか分からなかった。
食事は、こんなに静かに味わってよかったのだ。
リュシーが眠ったのは、昼食のすぐ後だった。
やはり疲れていたのだろう。寝台に横になると、布兎を抱いたまま、すとんと眠りに落ちた。私はしばらくその寝顔を見ていた。
小さな胸が、規則正しく上下している。
それを確認してから、部屋を出た。
廊下では、ハンナが来客を告げた。
「奥様。アルノルト・ランキエール辺境伯がお見えです」
「ランキエール辺境伯が?」
名前は知っていた。
北方の国境を預かる若い辺境伯で、王都法院の臨時監察官も務めている人物だ。父が生前、信頼できる若者だと話していたことがある。
応接室へ入ると、背の高い男性が立っていた。
濃い茶色の髪に、冬の森のような灰緑の瞳。軍人らしい体格だが、物腰は静かだった。彼は私を見ると、深く礼をした。
「突然の訪問をお詫びします。ノエリア・レーヴェルト侯爵夫人」
「今はまだ、その名で呼ばれることになるのでしょうね」
「では、ノエリア様と」
彼は言い直した。
それだけのことなのに、私は少し驚いた。ギルベルトは、私が何を嫌がっても呼び方を変えなかった。妻なのだから当然だと、そういう顔をしていた。
「王都法院に提出された別居申立書を確認しました。幼児の療養環境に関わる案件のため、私が一時保護の確認に参りました」
「早いのですね」
「あなたの兄上からも連絡がありました。かなり急いだ文面でしたので」
兄らしい。
私は少しだけ息を吐いた。
「娘は眠っています。診察が必要でしたら、起こします」
「眠っているなら、起こさない方がいいでしょう」
アルノルトは即座にそう言った。
私はまた驚いて、彼を見た。
彼は淡々と続ける。
「移動直後の子どもには休息が必要です。診察は目が覚めてからで構いません。同行した医師も同じ判断をするはずです」
「……ありがとうございます」
「当然のことです」
当然。
そう言われて、胸が少し詰まった。
子どもが眠っている時、大人が声を落とすこと。体調の悪い子を起こさないこと。寒がる子に毛布を足すこと。
それは本来、特別な優しさではなく、当然であってほしかった。
「侯爵家から連れ戻しの要請が出た場合、私は拒めますか」
「診断書と療養記録がある限り、少なくとも調停開始までは母子保護が優先されます」
アルノルトは書類を机に置いた。
「ただし、侯爵家側があなたを悪意ある別居だと訴える可能性はあります。そのため、南翼療養室の改修記録、リュシー様の発熱記録、薬の購入記録、そして昨日の会話を知る証人が必要です」
「証人なら、侍女のハンナと給仕が二人います」
「十分です」
「それから、南翼療養室は私の持参金で整えたものです。改修領収書もあります」
アルノルトは一瞬だけ、感心したように目を細めた。
「準備が早いですね」
「娘を連れて出るなら、泣くより先に書類です」
「その判断は正しい」
彼は短く言った。
褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
ギルベルトは私の几帳面さを嫌っていた。薬の時間を守ることも、部屋の温度を記録することも、領収書を保管することも、すべて「神経質だ」と言った。
けれど、神経質でもいい。
その記録でリュシーを守れるなら。
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「おかあさま……?」
寝起きのリュシーが、ハンナに付き添われて応接室の入口に立っていた。髪は少し乱れ、布兎を抱えている。
私はすぐに立ち上がった。
「起きたのね。寒くない?」
「さむくない」
リュシーは私のそばまで来ると、アルノルトを見上げた。知らない男性に緊張したのか、私のスカートを掴む。
アルノルトは膝をついた。
大人の男性が、三歳の子どもと目線を合わせる。その動作があまりに自然で、私はまた少し驚いた。
「初めまして、リュシー様。私はアルノルトと申します」
「あるのると?」
「言いにくければ、アルで構いません」
リュシーは少し考えた。
「アルさま」
「はい」
アルノルトは真面目な顔で頷いた。
「お母様とリュシー様が、温かい部屋で休めるよう手伝いに来ました」
リュシーは私を見上げた。
「このひと、いいひと?」
「今のところは」
私がそう答えると、アルノルトが小さく咳をした。笑いを堪えたのかもしれない。
リュシーは布兎を抱き直して、アルノルトに小さく頭を下げた。
「おへや、ありがとう」
「どういたしまして」
彼はとても静かに答えた。
その日の夕方、侯爵家から最初の使者が来た。
手紙には、ギルベルトの硬い字でこう書かれていた。
『リリアの容体が悪い。君の魔法が必要だ。リュシーの部屋の件は再考する。至急戻るように』
私はその手紙を読み、しばらく黙った。
リュシーは隣の部屋で、マーサと一緒に冬鈴草を眺めている。笑い声が聞こえた。今朝まで侯爵家で怯えていた娘が、もう笑っている。
それが答えだった。
「返信なさいますか」
ハンナに問われ、私は頷いた。
「ええ」
私は新しい便箋を出し、短く書いた。
『リュシーが眠っておりますので、本日の返答は差し控えます。リリア様の診察は医師へご依頼ください』
書き終えてから、もう一行だけ加えた。
『私は娘の部屋ではなく、娘の人生を守るために出ました』
封をして、使者に渡す。
外は冷えてきていた。けれど、旧温室館の中は暖かい。暖炉の火が静かに燃え、リュシーの笑い声が廊下に響いている。
私は初めて、心から息を吸った。
もう戻らない。
夫に愛されるためではなく、娘と生きるために。
その夜、レーヴェルト侯爵邸では、南翼の療養室の温度が急に下がったという。
暖炉は燃えている。保温石もある。だが、部屋の隅から冷えが滲み出すように広がり、リリアは青ざめて毛布を重ねた。
使用人たちは慌てて魔術師を呼んだが、誰も原因を見つけられなかった。
なぜなら、その部屋を本当に暖かくしていたのは、石でも暖炉でもなく、毎朝毎晩、壁の冷えを読み、窓の熱を整え、娘の寝息を聞きながら魔法をかけ続けていた私だったからだ。
ギルベルトがそれに気づくのは、まだ少し先のことだった。
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