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第二話 荷物は少なく、証拠は多く

 離縁を口にした翌朝、私は屋敷の誰よりも早く起きた。


 まだ空は暗い。窓の外には霜が降り、庭木の枝先が白く光っている。南翼の療養室だけは、いつものように柔らかく暖かかった。


 リュシーは小さな寝息を立てている。


 昨夜はなかなか眠れなかった。私が離縁すると言ったあと、ギルベルトはしばらく怒鳴っていた。リリアは泣き、使用人たちは目を伏せ、リュシーは私の腕の中で震えていた。


 だから、私は夜のうちに荷造りをした。


 娘の肌着。柔らかい靴下。薬草の粉を入れた小瓶。発熱時の記録帳。お気に入りの布兎。私の服は三着でいい。宝石も装飾品も、必要なもの以外は置いていく。


 その代わり、書類はすべて持った。


 婚姻契約書の写し。


 持参金の目録。


 南翼療養室の改修領収書。


 リュシーの診断書。


 娘の療養費が私の実家から出されていることを示す口座記録。


 そして、王都法院へ提出する別居申立書と離縁調停申立書。


 前世の記憶が戻ったせいか、私は昨夜から驚くほど頭が冴えていた。感情はある。怒りも悲しみもある。けれど、それに溺れている時間はない。


 子どもを連れて家を出る時は、感情より先に荷物と行き先と証拠を揃えなければならない。


 前世で何度も見たことだ。


「奥様」


 控えめな声がして、侍女のハンナが入ってきた。


 彼女は私が嫁いできた時、実家から一緒に来てくれた侍女だ。黒髪をきっちりまとめ、いつも落ち着いている。けれど今朝の顔色は少し悪かった。


「馬車の支度ができました。御者はヴァイス伯爵家の者です。裏門に回してあります」


「ありがとう。あなたまで巻き込んでごめんなさい」


「巻き込まれたとは思っておりません」


 ハンナは首を振った。


「私は奥様とお嬢様にお仕えしております。侯爵様にではありません」


 その言葉に、胸が少し熱くなった。


「ハンナ」


「泣くのは馬車の中でお願いいたします。今は時間がありません」


「……ええ、そうね」


 少し笑うと、ハンナもほんのわずかに口元を緩めた。


 リュシーを起こす前に、私は療養室の暖炉へ手をかざした。


 私の魔法は、世間では地味なものとされている。火を生み出すわけでも、病を治すわけでもない。ただ、すでにある熱を逃がさず、冷えきったものへ少しずつ移すだけ。


 社交界では「湯たんぽ魔法」などと笑われたこともある。


 でも、この魔法でリュシーは冬を越してきた。


 暖炉の奥に残った熱を布団へ移し、娘の着替えを温める。薬瓶を厚手の布で包み、温度が落ちないよう小さな魔法をかける。


 そうしていると、扉が乱暴に開いた。


「奥様、旦那様のご命令です。お嬢様の荷物は北翼へ移すようにと」


 入ってきたのは、侯爵家付きのメイド、エイダだった。


 彼女は私を奥様と呼ぶが、その声に敬意はない。ギルベルトが私を軽んじているから、使用人たちの多くも同じように振る舞う。リュシーの部屋の掃除を後回しにしたり、薬湯を冷めたまま運んできたりしたのも彼女だった。


 エイダは私の足元の鞄を見るなり、目を細めた。


「何をなさっているのですか?」


「出ていく支度です」


「本気でおっしゃっていたのですか? 旦那様がお許しになるはずがありません」


「許可を求めているわけではありません。別居申立書は朝一番で王都法院へ送りました」


「法院……?」


 エイダの顔色が変わった。


 私は机の上の薬箱に手を置いた。


「この薬箱に触れないでください。リュシーの診断書に基づく療養薬です。持ち出しを妨害した場合、幼児の療養を阻害した記録として提出します」


「そんな大げさな」


「大げさかどうかは、法院の調査官が判断します」


 エイダは悔しそうに唇を噛んだ。


 その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。重く、苛立った足音だ。


「ノエリア」


 ギルベルトが扉の前に立っていた。


 昨夜よく眠れなかったのだろう。目の下に薄く影がある。けれど、それでも整った顔立ちは崩れず、銀灰色の髪も乱れていない。


 私はこの人を、かつて美しいと思っていた。


 今は、ただ遠い。


「本気で出ていくつもりか」


「はい」


「リリアは昨夜から体調を崩している」


「それはお気の毒です。医師をお呼びください」


「君の魔法が必要だ」


「私の魔法はリュシーのために使います」


 ギルベルトは信じられないものを見るように私を見た。


「君はそんなに冷たい女だったのか」


「いいえ」


 私はリュシーの外套を手に取った。


「冷たい部屋に娘を置かない女です」


「リリアは君に何もしていない」


「リリア様を責めているのではありません。あなたの判断を拒んでいるのです」


「妻なら夫を支えるべきだ」


「夫なら娘を守るべきでした」


 ギルベルトの顔が強張った。


 その沈黙の中で、リュシーが目を覚ました。ぼんやりと私を見て、それから扉の前の父親に気づく。


「おとうさま……?」


 小さな声だった。


 リュシーは布兎を抱きしめたまま、少しだけ手を伸ばした。


 ギルベルトは、その手を見なかった。


 彼の視線は、私の持つ書類に向いていた。


「その申立書を取り消せ。今なら許す」


 リュシーの手が、ゆっくり下がった。


 私は娘を抱き上げた。温めておいた外套を着せ、フードをかぶせる。リュシーは私の肩に顔を埋めた。


「おかあさま、リュシー、わるいこ?」


「いいえ」


 私はすぐに答えた。


「あなたは何も悪くないわ」


 ギルベルトは苛立ったように息を吐いた。


「ノエリア、子どもを使って私を責めるな」


「責めているのではありません。記録しているだけです」


「何?」


「あなたがこの子の手を見なかったことも、記録に残ります」


 ギルベルトの唇が動いたが、言葉は出なかった。


 私はハンナに目配せをした。彼女が鞄を持ち、薬箱を抱える。廊下には、ヴァイス伯爵家から来た護衛が二人立っていた。


「出ていったら、簡単には戻れないぞ」


 ギルベルトが低い声で言った。


 私はリュシーを抱いたまま、振り返る。


「戻らないために、出ていくのです」


 裏門に停められた馬車は、質素だが中がよく温められていた。座席には厚い毛布が敷かれ、足元には熱を保つ石が置かれている。


 リュシーを座らせると、娘は不安そうに私の袖をつかんだ。


「おとうさま、ばいばい、しなかった」


「そうね」


「リュシー、ばいばい、したかった」


 その言葉に、胸が刺された。


 私は娘の髪を撫でた。柔らかい栗色の髪。少し癖があって、寝起きはいつも跳ねる。


「また会うことがあったら、その時に言いましょう。でも今日は、温かいところへ行く日よ」


「あったかいところ?」


「ええ。温かいスープを飲んで、柔らかい寝台で眠れるところ」


 リュシーは少し考えて、それから小さく頷いた。


「おかあさまと、いっしょ?」


「もちろん」


 馬車が動き出す。


 屋敷の門が遠ざかっていく。


 私は振り返らなかった。


 あの屋敷に残してきたのは、夫への未練ではない。娘の部屋を奪おうとした人々と、もう二度と戻らないと決めた過去だけだ。

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