第一話 娘の部屋を明け渡せと言われました
「ノエリア。リリアをこの屋敷で療養させる。君とリュシーの部屋を、明け渡してくれ」
夫のギルベルト・レーヴェルト侯爵は、朝食の席でそう言った。
食堂には冬の薄い光が差し込んでいた。長卓の端には温めたミルク、白パン、柔らかく煮た野菜のスープが並んでいる。三歳になる娘のリュシーは、私の隣で小さな両手を膝に置き、まだ眠そうな顔をしていた。
私は一瞬、聞き間違いかと思った。
「……どの部屋を、ですか?」
「南翼の療養室だ」
ギルベルトは当然のように答えた。
南翼の療養室。
それは、この屋敷で一番よく日が入る部屋だった。壁の内側に保温石を埋め込み、暖炉の煙道を改修し、窓には厚い二重硝子を入れてある。すべて私の持参金で整えた。リュシーが二歳の冬、北の客間で高熱を出して息が浅くなったあと、二度と同じことを起こさないために作った部屋だ。
「そこはリュシーの部屋です。あの子の体には、冷えが一番よくありません」
「分かっている。だが、リリアの体にも冷えはよくない」
ギルベルトの隣に座っている女性が、白い指で胸元を押さえた。
リリア・オルセーヌ男爵令嬢。
夫の幼馴染で、昔から病弱だと聞かされてきた女性だ。淡い金髪をゆるく結い、薄水色の瞳を伏せる姿は、たしかに守ってやりたくなるような儚さがあった。
「ノエリア様、ごめんなさい。わたしのせいで……」
リリアは今にも泣きそうな声で言った。
けれど、彼女の椅子には夫の上着が掛けられている。膝には私がリュシーのために用意していた羊毛の膝掛けが置かれていた。
私が何かを言う前に、ギルベルトが口を開いた。
「リリアは長旅で疲れている。王都の医師からも、しばらく暖かい部屋で休ませるようにと言われている。君なら分かるだろう」
「では、客間を改修します」
「時間がかかる」
「暖炉の魔石を入れ替えれば、今日中に最低限は整います。費用は私の持参金口座から出しても構いません」
「そういう話ではない」
ギルベルトは苛立ったように眉を寄せた。
「リリアは今、すぐにでも休む必要がある。君とリュシーは北翼の客間へ移ればいい。子どもは環境に慣れるのが早いだろう」
リュシーが、私のドレスの袖をぎゅっと握った。
その小さな指が震えている。
この子はまだ難しい話を理解できない。けれど、大人の声の冷たさには敏い。自分の部屋がなくなるということだけは、きっと分かってしまった。
「北翼の客間は、一昨年リュシーが発作を起こした部屋です」
「大げさだ」
「大げさではありません。あの夜、リュシーは息ができなくなりました。医師が夜明けまでそばについて、ようやく熱が下がったのです」
「だからこそ、君がついていればいい。君は母親だろう」
その言葉に、胸の奥が少し冷えた。
母親だから我慢しろ。
母親だから何とかしろ。
母親だから娘を寒い部屋へ移し、病弱な幼馴染の看病まで引き受けろ。
ギルベルトは何のためらいもなく、そう言っている。
「リリアの看病も、君に任せたい」
「私に、ですか」
「君は体を温める魔法が得意だろう。派手な治癒魔法ではないが、こういう時には役に立つ。妻として、侯爵家の客人をもてなすのは当然だ」
妻として。
その言葉を、私は心の中でゆっくり繰り返した。
結婚して四年。夫は私を妻として扱ったことがほとんどない。夜会では距離を置き、誕生日も忘れ、娘が熱を出した夜でさえ「明日の会議が早い」と寝室へ戻った。
それでも私は耐えてきた。
政略結婚だから仕方ない。リュシーのために家庭を壊すべきではない。夫が私を愛さなくても、娘には父親が必要なのだと、自分に言い聞かせてきた。
だが、娘の部屋を奪われるのは違う。
「おかあさま」
リュシーが小さく呼んだ。
振り向くと、娘は唇を震わせながら私を見上げていた。
「リュシーのおへや、なくなっちゃうの?」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白い蛍光灯。紙の匂い。夜勤明けの重いまぶた。休憩室の片隅で読んでいた一冊の小説。
前世の記憶が、熱を持ったように流れ込んでくる。
私はかつて、日本で働く保育士だった。夜勤のある職場で、熱を出した子どもを抱いて朝を待ったことが何度もある。自分の体調を後回しにして、気づけば倒れ、目覚めることはなかった。
そして、私はこの世界を知っていた。
前世で読んだ少女小説、『冬薔薇の侯爵夫人』。
主人公はノエリア・レーヴェルト。冷遇されても夫を愛し続ける侯爵夫人。夫の幼馴染リリアを献身的に看病し、娘リュシーの部屋まで譲る。
その結果、リュシーは冷えた北翼の客間で高熱を出す。
母であるノエリアがリリアの看病をしている間に、娘はひとりで息を引き取る。
娘の死によって、ギルベルトは初めてノエリアの痛みに気づく。そして後悔し、妻を溺愛し始める。物語は涙ながらの和解へ進み、最後は夫婦の愛が再生したことになっていた。
前世の私は、その展開に泣いた。
今の私は、泣けなかった。
冗談ではない。
娘が死ななければ始まらない愛など、こちらから願い下げだ。
「おかあさま?」
リュシーがまた私を呼んだ。
私は娘の手を包み込んだ。小さくて、温かい。まだ生きている。ここにいる。
「なくならないわ」
私は静かに言った。
「あなたがいる場所を、お母さまの部屋にするから」
リュシーは意味が分からなかったのか、目をぱちぱちと瞬かせた。
ギルベルトは不快そうに私を見る。
「ノエリア。子どもの前で感情的になるのはやめろ」
「感情的ではありません」
「なら、話は決まりだ。今日中にリュシーの荷物を北翼へ移せ。リリアは昼過ぎには休ませたい」
「分かりました」
私が頷くと、ギルベルトの表情が少し緩んだ。
きっと、いつものように私が折れたと思ったのだろう。
リリアもほっとしたように息を吐いた。
私はリュシーを抱き上げた。三歳にしては軽い。軽すぎる。腕に収まるその重さが、私の答えを決めた。
「では、離縁しましょう」
食堂の空気が止まった。
給仕の手が止まり、リリアが目を見開き、ギルベルトは私の言葉を理解できなかったように黙り込んだ。
「……何だと?」
「リリア様は南翼の部屋をお使いください。私はリュシーを連れて、この屋敷を出ます」
「脅しているのか」
「いいえ。避難です」
「侯爵家の妻が、そんな勝手を許されると思っているのか」
「侯爵家の妻でいる限り、娘の命より夫の幼馴染を優先しろと言われるのでしょう。でしたら、妻をやめます」
リュシーが私の首にしがみついた。
私はその背中をゆっくり撫でる。少し薄い背中だ。この子をもっと食べさせて、眠らせて、笑わせなければならない。
夫に愛されるかどうかより、ずっと大事なことがある。
「ギルベルト様」
私は夫をまっすぐ見た。
「リリア様を好きなだけ大切になさってください。私は、娘を大切にします」




