第5話 不誠実の臨界点
第5話 不誠実の臨界点
朝から雪が降っていた。
白く重たい雪が王都の石畳を覆い、街路樹の枝を静かに垂れ下がらせている。
エルザは窓辺に立ち、灰色の空を見上げていた。
今日はオークションの日だった。
その日のために、彼女は何か月も前から準備をしていた。
胸元には冬至梅のブローチはない。
あの日以来、戻ってきたそれを身につける気にはなれなかった。
代わりに母の形見の銀の腕輪をつけている。
細く繊細な細工が施された腕輪だった。
幼い頃、母がよく撫でてくれた手と同じ温もりを思い出させる。
コンコン。
扉が叩かれた。
「入って」
リュシアンが入ってくる。
今日は珍しく約束の時間通りだった。
濃紺の礼装に身を包み、外出用のマントを肩に掛けている。
「準備はできたか?」
「ええ」
エルザは静かに頷いた。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
やがてリュシアンが口を開いた。
「心配するな」
「……」
「必ず買い戻してやる」
エルザは彼を見た。
久しぶりに胸が少しだけ揺れた。
ほんのわずかに。
期待ではない。
確認だった。
本当に守るのか。
この約束だけは。
「ありがとうございます」
それだけ答えた。
その家宝は特別だった。
ただ高価な宝石ではない。
冬至梅の魔石を埋め込んだ首飾り。
代々、エルザの一族の当主夫人が受け継いできたものだった。
母が亡くなったあと。
実家は財政難に陥った。
首飾りも手放さざるを得なかった。
そして今。
他家の没落によって市場へ流れ、王都最大のオークションへ出品されることになった。
二度とない機会だった。
「公爵家の名において買い戻してほしい」
そう頼んだ時。
リュシアンは迷わず承諾した。
だから今日だけは信じたかった。
馬車の準備も整っていた。
だが。
その時だった。
廊下から悲鳴が聞こえた。
「リュシアン様ぁ!」
聞き慣れた声。
クロエだった。
バタバタと足音が近付く。
扉が勢いよく開いた。
クロエが顔を真っ青にして立っている。
「お腹が……お腹が痛いんです……!」
そのまま崩れ落ちた。
リュシアンが駆け寄る。
「クロエ!」
「苦しい……」
「医師を呼べ!」
使用人たちが慌てて走り出す。
騒然となる室内。
エルザはただ見ていた。
まるで遠くの出来事のように。
医師が来る。
診察が始まる。
クロエは苦しそうに呻く。
リュシアンは付き添う。
時間だけが過ぎていく。
やがて馬車の出発時刻が迫った。
エルザは静かに言った。
「そろそろ出発しなければ」
リュシアンは振り返る。
迷う顔をした。
だが次の瞬間。
クロエが袖を掴んだ。
「行かないで……」
涙声だった。
リュシアンは眉を寄せる。
そして。
エルザを見た。
「今日は無理だ」
静かな声だった。
エルザは何も言わない。
「クロエを放っておけない」
「……そうですか」
「オークションはまた機会がある」
エルザは時計を見る。
開始まであと三十分。
王都の反対側だ。
もう間に合わない。
「分かりました」
その言葉にリュシアンは安心したようだった。
エルザはマントを脱いだ。
そして窓辺へ向かう。
外では雪が降っている。
静かに。
どこまでも静かに。
午後。
オークション会場。
エルザは一人で来ていた。
最後まで諦められなかった。
会場には大勢の貴族たちが集まっている。
華やかなドレス。
宝石。
香水の香り。
競売人の声。
だが彼女の耳には何も入らない。
やがて首飾りが運ばれてきた。
ガラスケースの中。
冬至梅の魔石が淡く光っている。
母の首元で輝いていた姿が脳裏によみがえる。
「開始価格五十万ゴールド!」
競売が始まった。
次々と値が上がる。
六十万。
七十万。
八十万。
エルザには手が出せない。
公爵家の資金が必要だった。
リュシアンとの約束が。
必要だった。
「百二十万!」
「百三十万!」
数字が上がっていく。
やがて。
「百五十万ゴールド!」
競売人が木槌を振り上げた。
「他にございませんか!」
静寂。
誰も声を上げない。
「百五十万ゴールド!」
カン。
木槌が鳴った。
終わった。
首飾りは他家の侯爵へ渡った。
その瞬間。
エルザは不思議なほど何も感じなかった。
悲しみも。
怒りも。
涙も。
何も。
ただ。
本当に何も。
夜。
公爵邸へ戻る。
夕食の席にはリュシアンとクロエがいた。
クロエは元気そうにスープを飲んでいる。
焼きたてのパン。
牛肉の煮込み。
香草焼きの鶏肉。
豊かな香りが漂う。
「体調は?」
エルザが尋ねる。
「もうすっかり元気です」
クロエは笑った。
リュシアンもほっとした顔をする。
「良かった」
エルザは彼を見た。
「首飾りは落札されました」
リュシアンの顔が少し曇る。
「ああ……そうか」
それだけだった。
それだけ。
しばらく沈黙が流れる。
やがて彼は言った。
「また次の機会に」
エルザは黙っている。
「お前なら実家との折り合いもつけられるだろ」
その言葉。
その瞬間だった。
胸の奥で何かが音もなく崩れた。
粉々に。
完全に。
『致命的ストレスを確認』
守護植物の声が響く。
『回復不能』
『愛情組織消滅』
『アブシシン酸濃度上昇』
エルザは静かにスープを口へ運ぶ。
温かい。
だが何も感じない。
『九十七パーセント』
リュシアンは気付いていない。
クロエも気付いていない。
二人は食事を続けている。
楽しそうに。
平和そうに。
『九十九パーセント』
エルザはナプキンを畳んだ。
そして静かに席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「もう行くのか?」
リュシアンが尋ねる。
エルザは微笑んだ。
とても穏やかに。
とても優しく。
「ええ」
その瞳は冬空のように澄んでいた。
『アブシシン酸濃度最大値到達』
『完全落葉条件を満たしました』
誰にも聞こえない声が告げる。
エルザは振り返らない。
ゆっくりと食堂を後にした。
窓の外では雪が降っている。
長い冬の夜だった。
だが。
その冬はもう終わっていた。
少なくとも。
エルザの心の中では。




