第4話 休眠準備
第4話 休眠準備
冬の朝は静かだった。
公爵邸の庭園を覆う雪はさらに厚みを増し、裸木の枝には氷の結晶がぶら下がっている。曇った空からは弱い陽光が差し込み、世界は白銀色に染まっていた。
エルザは書斎の窓辺で温かな紅茶を飲んでいた。
林檎と蜂蜜の香りが立ちのぼる。
机の上には分厚い帳簿の山。
領地財政。
農園管理。
税収予測。
融資契約。
魔導植物育成記録。
すべて彼女が管理しているものだった。
かつては公爵家の未来だと思っていた。
今は違う。
ただの数字だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのはマリアだった。
銀の盆には朝食が乗っている。
焼きたてのクロワッサン。
卵料理。
ベーコン。
温かなポタージュ。
「また徹夜なさったのですか」
「少しだけ」
「少しじゃありません」
マリアはため息をついた。
エルザは微笑む。
その笑顔に以前のような寂しさはない。
代わりに静かな決意があった。
「整理しているだけよ」
「何をです?」
「私の仕事を」
マリアは首を傾げた。
意味が分からない。
だが最近の奥様は何かが変わった。
それだけは確かだった。
朝食後。
エルザは王都へ向かう馬車に乗った。
濃紺の外套に身を包み、白い毛皮の襟元に顔を埋める。
雪景色が流れていく。
目的地は王立銀行。
巨大な石造りの建物だった。
応接室に通される。
しばらくすると初老の男性が現れた。
王立銀行総裁、アルフォンスである。
彼はエルザを見るなり笑顔になった。
「久しぶりですな、エルザ様」
「ご無沙汰しております」
二人は握手を交わした。
五年前。
公爵家が破綻寸前だった時期がある。
誰も気付いていなかった巨額の赤字。
それを救ったのがエルザだった。
緻密な会計改革。
不正契約の排除。
税収改善。
王立銀行は莫大な損失を回避できた。
アルフォンスは今でも恩を忘れていない。
「今日はどのようなご用件で?」
エルザは紅茶を受け取りながら答えた。
「確認したいことがございます」
「ほう」
「公爵家に対する融資契約についてです」
総裁の目が鋭くなる。
エルザは静かに資料を差し出した。
「私個人の保証がどの程度含まれているか確認したいのです」
アルフォンスは一瞬だけ沈黙した。
賢い男だった。
すぐに理解する。
「……なるほど」
それ以上は聞かなかった。
「資料はすべて用意させましょう」
「ありがとうございます」
話はそれで終わった。
しかし二人とも分かっていた。
これはただの確認ではない。
何かが動き始めている。
帰りの馬車。
雪が窓を叩く。
エルザは書類を眺めながら静かに息を吐いた。
その夜。
公爵邸では晩餐が開かれていた。
テーブルには鴨肉のロースト。
じゃがいものグラタン。
香草を添えた白身魚。
温かなスープ。
クロエは機嫌が良かった。
「リュシアン様、この前のお店のドレス、とても素敵でしたわ」
「気に入ったなら良かった」
「春物も欲しいです」
「好きにしなさい」
エルザは黙ってスープを口に運ぶ。
何も言わない。
何も反対しない。
クロエはそれが嬉しかった。
リュシアンも同じだった。
「最近、エルザは落ち着いたな」
ふと彼が言った。
「そうでしょうか」
「以前は細かいことばかり言っていた」
クロエが笑う。
「きっとリュシアン様のお気持ちを理解されたのですわ」
「そうかもしれん」
リュシアンは満足そうだった。
「ようやく俺のやり方を分かってくれたんだろう」
エルザはパンをちぎる。
バターの香りが広がる。
だが何も感じない。
理解した。
確かに理解した。
自分が何番目なのか。
何を失っていたのか。
だからもう説明しない。
理解してもらう必要がないから。
その頃。
深夜の書斎。
暖炉の火だけが揺れている。
エルザは分厚い帳簿を開いていた。
さらさらとペンが走る。
数字。
記号。
注釈。
契約番号。
計算式。
複雑な相関図。
誰が見ても整理されている。
だが本質を理解できる者はほとんどいない。
次代への引き継ぎ帳簿。
その名目で作成している。
もちろん嘘ではない。
優秀な人間なら読める。
だが無能には不可能だ。
「これでよし」
エルザは一冊を閉じた。
領地経営の核心部分。
魔導農園の収穫予測。
災害時の対応計画。
融資更新手順。
税収調整。
すべて記録した。
だが理解するには高度な知識が必要だった。
彼女は次の書類を手に取る。
持参金目録。
実家資産。
個人契約。
特許権。
一つずつ整理していく。
静かに。
淡々と。
まるで冬を越す植物のように。
『休眠準備開始』
守護植物の声が響く。
『不要な消耗を停止』
『生存資源を根へ移行』
エルザは目を閉じた。
冬至梅は冬に咲く。
だがそれは何もしていないわけではない。
見えない地中で根を守り続けている。
春のために。
生き残るために。
エルザはゆっくりと微笑んだ。
暖炉の火が揺れる。
窓の外では雪が降り続いている。
公爵邸は静かだった。
誰も気付いていない。
崩壊の準備が始まっていることに。
リュシアンは安心している。
クロエは満足している。
二人とも勘違いしている。
エルザが従ったのだと。
エルザが理解したのだと。
違う。
理解したのは確かだった。
ただし。
それは彼らの価値ではない。
彼らがもう必要ないという事実だった。
『休眠準備率六十五パーセント』
静かな声が告げる。
エルザは最後の書類に署名した。
そして窓の外の雪を見つめる。
長い冬になるだろう。
だが彼女は知っていた。
冬は終わる。
春は必ず来る。
その時。
この屋敷にはもう自分はいない。




