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第3話 乾燥ストレス

第3話 乾燥ストレス


王都に本格的な冬が訪れていた。


公爵家主催の冬の夜会の日である。


屋敷の大広間には巨大な氷の彫刻が飾られ、天井からは無数のシャンデリアが輝いていた。金色の光が磨き上げられた床に反射し、色とりどりのドレスをまとった貴族たちが優雅に談笑している。


楽団の演奏が流れ、厨房からは仔羊のローストや香辛料を効かせた温かなスープの香りが漂っていた。


エルザは自室の鏡の前に立っていた。


深い群青色のドレス。


銀糸で冬至梅の花が刺繍されている。


胸元には何もない。


本来ならそこにあるはずのものが。


コンコン。


扉が開いた。


リュシアンだった。


黒の礼装に身を包み、いかにも夜会の主催者らしい威厳をまとっている。


「まだ準備中か」


「もう終わります」


エルザは鏡越しに答えた。


リュシアンは少し言いにくそうな顔をする。


「ああ、それで頼みがある」


エルザは振り返った。


「何でしょう」


「冬至梅のブローチなんだが」


その言葉にマリアがびくりと肩を震わせた。


冬至梅のブローチ。


それはエルザの一族に代々伝わる宝物だった。


白銀で作られた梅の花。


中心には冬の魔石が埋め込まれている。


守護植物である冬至梅の魔力を安定させる核。


そして亡き母の形見でもあった。


リュシアンは続ける。


「クロエがどうしても付けてみたいと言うんだ」


エルザは黙っていた。


「一晩だけ貸してやってくれ」


「……」


「減るものじゃないだろう」


静寂が落ちる。


暖炉の火だけが揺れていた。


マリアが思わず口を開く。


「公爵様、それは奥様の——」


「マリア」


エルザが静かに制した。


マリアは唇を噛む。


リュシアンは気付いていない。


そのブローチがどれほど大切なものか。


いや。


説明されたことはある。


何度も。


ただ覚えていないだけだ。


エルザより優先するほど重要ではなかったから。


「エルザ?」


リュシアンが不思議そうに首を傾げる。


「貸せない理由でもあるのか?」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥で何かが乾いた音を立てた。


ぽきり。


細い枝が折れるような音。


『乾燥ストレス継続』


頭の奥で守護植物の声が響く。


『養分流出を確認』


『生存率低下』


エルザは静かに微笑んだ。


「分かりました」


リュシアンは安心したように笑う。


「そうか。助かる」


エルザは引き出しを開けた。


絹の箱を取り出す。


蓋を開ける。


冬至梅のブローチが静かに輝いていた。


母の笑顔が脳裏をよぎる。


幼い頃。


熱を出して寝込んだ夜。


母はこのブローチを握らせてくれた。


「冬至梅はね」


そう言って微笑んでいた。


「どんな寒い冬でも咲くのよ」


温かな記憶だった。


エルザはブローチを箱ごと差し出した。


「どうぞ」


リュシアンは何のためらいもなく受け取った。


「ありがとう」


そして去っていく。


エルザは引き止めなかった。


十分後。


大広間。


ざわめきが起こった。


「まあ……」


「あれは……」


「冬至梅のブローチでは?」


階段の上から現れたのはクロエだった。


純白のドレス。


首元には真珠。


そして胸には冬至梅のブローチ。


彼女は満面の笑みを浮かべていた。


リュシアンがエスコートしている。


まるで夜会の主役のように。


貴族たちの視線が集まる。


ひそひそと囁きが広がった。


「公爵夫人のものでは?」


「なぜ従妹が」


「信じられない」


「またですか」


やがてエルザが会場へ姿を見せた。


群青色のドレス。


胸元は空白。


本来あるべき輝きがない。


その姿を見て、さらに空気が重くなる。


誰の目にも分かった。


冷遇されている。


公爵夫人が。


クロエは気付かない。


無邪気に笑っている。


「素敵でしょう?」


周囲の令嬢たちに見せびらかしている。


「リュシアン様が貸してくださいましたの」


その言葉に数人の貴婦人が眉をひそめた。


エルザは静かにテーブルへ向かう。


前菜が並んでいた。


燻製サーモン。


魚卵を乗せたクラッカー。


ハーブで味付けされた鴨肉。


どれも美味しい。


だが味はほとんど感じなかった。


「奥様」


声をかけてきたのは老侯爵夫人だった。


「大丈夫ですか」


「何がでしょう」


「……」


老婦人は言葉を失う。


エルザは本当に平静だった。


怒りもない。


悲しみもない。


ただ静かだった。


恐ろしいほどに。


夜会が進む。


ダンスが始まる。


本来なら最初の一曲は夫婦が踊る。


しかし。


「クロエ」


リュシアンが手を差し出した。


「踊ろう」


「はい!」


二人が踊り始める。


会場の空気が凍りついた。


誰も何も言わない。


言えない。


エルザだけがそれを見つめていた。


遠くから。


まるで他人事のように。


その時。


胸の奥から不思議な感覚が広がる。


痛みではない。


悲しみでもない。


何かが完全に終わる感覚だった。


『養分供給停止』


『愛情組織の枯死を確認』


『修復不能』


『完全枯死判定』


守護植物の声が静かに告げる。


エルザはワイングラスを持ち上げた。


赤い液体が揺れる。


向こうではリュシアンが笑っている。


クロエも笑っている。


以前なら苦しかっただろう。


涙が出ただろう。


だが今は違う。


何も感じない。


本当に何も。


エルザはようやく理解した。


終わったのだ。


愛していた。


信じていた。


待っていた。


許していた。


そのすべてが。


もう存在しない。


リュシアンを見ても心は動かない。


怒りさえ湧かない。


ただの他人を見るような感覚だった。


エルザは静かに微笑んだ。


窓の外では雪が降っている。


白く。


冷たく。


どこまでも静かに。


『離層形成率八十七パーセント』


『完全落葉準備を開始します』


誰にも聞こえない声が告げる。


エルザは最後の一口を飲み干した。


冬はまだ続く。


だが春を待つ必要は、もうなかった。


この第3話は、エルザが「傷つく段階」から「愛情が完全に消滅する段階」へ移る重要な回です。第4話では表面上は何事もなく過ごしながら、水面下で王立銀行や実家との根回しを始め、リュシアンが気付かないまま破滅への準備が進んでいきます。



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