第2話 気孔の閉鎖
第2話 気孔の閉鎖
冬の朝は遅い。
公爵邸の庭園は白い雪に覆われ、裸になった木々の枝先には霜がきらめいていた。空気は冷たく澄み、吐く息は白い。
エルザは書斎の窓辺に立ち、静かに庭を見下ろしていた。
結婚記念日の晩餐会から二週間が過ぎていた。
胸の痛みは不思議なほど薄れている。
代わりに残ったのは静かな冷たさだった。
コンコン、と扉が鳴る。
「奥様、朝食のご用意が整いました」
侍女マリアの声だった。
「ええ」
食堂へ向かう。
長いテーブルには湯気の立つオニオンスープ、焼きたてのパン、燻製ベーコン、半熟卵、蜂蜜をかけた焼きリンゴが並んでいた。
香ばしい匂いが広がる。
だが席には見慣れない人物が座っていた。
クロエだった。
淡い桃色のドレスを着て、まるでこの家の女主人のようにくつろいでいる。
「おはようございます、エルザ様」
にっこり笑う。
その隣にはリュシアン。
「おはよう」
エルザは静かに席についた。
クロエは嬉しそうにパンへジャムを塗る。
「実は昨日、リュシアン様にお願いしたんです」
「お願い?」
「しばらく公爵邸で暮らしたいって」
リュシアンが当然のように続ける。
「クロエの屋敷は冬場の管理が難しい。体調も安定しないしな」
エルザはスプーンを持つ手を止めた。
「そうなのですね」
「だから客室を使わせることにした」
「承知しました」
あまりにあっさりした返事に、リュシアンは少し拍子抜けした顔をした。
以前のエルザなら、
「いつまでですか」
「予算はどうするのですか」
そう聞いていたはずだ。
しかし今は違う。
ただ頷くだけ。
クロエはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、エルザ様」
エルザは微笑んだ。
「ごゆっくりお過ごしください」
その笑顔に温度はなかった。
数日後。
クロエはすっかり公爵邸に馴染んでいた。
応接室では高価な茶葉を飲み、庭園では散歩を楽しみ、使用人たちに次々と命令を出している。
午後。
エルザは執務室で帳簿を確認していた。
そこへクロエが現れる。
「エルザ様」
「何かしら」
「春の新作ドレスが欲しいんです」
クロエは頬を染めて言った。
「王都の仕立て屋が素敵な生地を入荷したそうで」
「そう」
「でもお金が少し足りなくて」
エルザは帳簿を閉じた。
「個人予算からですか?」
「いいえ、公爵家の予算から」
当然のように答える。
そこへリュシアンも入ってきた。
「ちょうどよかった」
彼は椅子へ腰掛ける。
「クロエの件なんだが」
エルザは黙って待った。
「少し融通してやってくれ」
「領地予算から?」
「問題ないだろう」
リュシアンは笑う。
「お前は数字に強いんだから」
エルザは視線を落とした。
机の上には膨大な帳簿。
冬の除雪費。
農地維持費。
災害対策費。
孤児院支援費。
すべて彼女が管理している。
「今年は寒波の予測が出ています」
「だから?」
「予備費を削るのは危険です」
クロエが悲しそうな顔をした。
「私のせいで迷惑をかけてしまうんですね……」
「そんなことはない!」
リュシアンが即座に否定する。
そしてエルザを見る。
「クロエには頼れる者がいない」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜか遠くから聞こえるように感じた。
「お前は強い」
リュシアンは続ける。
「だから少しくらい譲ってやれ」
静寂。
暖炉の薪がぱちりと弾ける。
窓の外では雪が降っていた。
エルザはしばらく黙っていた。
以前なら説明しただろう。
予算の仕組みを。
危険性を。
未来の損失を。
何時間でも。
だが今は違う。
胸の奥で何かが閉じていく。
『乾燥ストレスを確認』
頭の奥で声が響いた。
『水分損失率上昇』
『気孔閉鎖を推奨』
植物は乾燥に襲われると気孔を閉じる。
水を失わないために。
生き残るために。
エルザはゆっくり微笑んだ。
「分かりました」
リュシアンは満足そうに頷いた。
「そうか」
「好きに使ってください」
クロエが嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます!」
その声を聞きながら、エルザは静かに思った。
もう説明する必要はない。
理解してもらう必要もない。
期待する必要もない。
その夜。
エルザは一人で書斎にいた。
濃紺のドレスの上から厚手のショールを羽織り、暖炉の火を見つめる。
机の上には大量の書類。
契約書。
財産目録。
融資契約。
持参金台帳。
領地管理記録。
彼女は一本の羽根ペンを手に取った。
さらさらと文字を書き込む。
自分名義の資産。
実家由来の財産。
会計魔導士としての特許権。
すべてを分類していく。
誰にも気付かれないように。
淡々と。
正確に。
冷静に。
マリアがお茶を運んできた。
「奥様、もう夜更けです」
「ありがとう」
湯気の立つ紅茶から林檎とシナモンの香りが漂う。
マリアは机の書類を見て眉をひそめた。
「何をなさっているのですか」
エルザは紅茶を一口飲んだ。
温かい。
けれど胸の中は静かな冬だった。
「整理よ」
「整理?」
「いつか必要になるかもしれないから」
マリアは意味が分からなかった。
しかしその横顔を見て言葉を失う。
エルザは泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ静かだった。
あまりにも静かだった。
窓の外では雪が降り続いている。
その白さは世界中の音を吸い込んでしまうようだった。
エルザは再び羽根ペンを走らせる。
一枚。
また一枚。
書類を整理する。
胸の奥で何かが完全に閉じていく。
『気孔閉鎖完了』
『感情消費を最小化します』
『個体維持を優先します』
エルザは小さく目を閉じた。
暖炉の火が揺れる。
静かな冬の夜だった。




