表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/11

第2話 気孔の閉鎖

第2話 気孔の閉鎖


冬の朝は遅い。


公爵邸の庭園は白い雪に覆われ、裸になった木々の枝先には霜がきらめいていた。空気は冷たく澄み、吐く息は白い。


エルザは書斎の窓辺に立ち、静かに庭を見下ろしていた。


結婚記念日の晩餐会から二週間が過ぎていた。


胸の痛みは不思議なほど薄れている。


代わりに残ったのは静かな冷たさだった。


コンコン、と扉が鳴る。


「奥様、朝食のご用意が整いました」


侍女マリアの声だった。


「ええ」


食堂へ向かう。


長いテーブルには湯気の立つオニオンスープ、焼きたてのパン、燻製ベーコン、半熟卵、蜂蜜をかけた焼きリンゴが並んでいた。


香ばしい匂いが広がる。


だが席には見慣れない人物が座っていた。


クロエだった。


淡い桃色のドレスを着て、まるでこの家の女主人のようにくつろいでいる。


「おはようございます、エルザ様」


にっこり笑う。


その隣にはリュシアン。


「おはよう」


エルザは静かに席についた。


クロエは嬉しそうにパンへジャムを塗る。


「実は昨日、リュシアン様にお願いしたんです」


「お願い?」


「しばらく公爵邸で暮らしたいって」


リュシアンが当然のように続ける。


「クロエの屋敷は冬場の管理が難しい。体調も安定しないしな」


エルザはスプーンを持つ手を止めた。


「そうなのですね」


「だから客室を使わせることにした」


「承知しました」


あまりにあっさりした返事に、リュシアンは少し拍子抜けした顔をした。


以前のエルザなら、


「いつまでですか」


「予算はどうするのですか」


そう聞いていたはずだ。


しかし今は違う。


ただ頷くだけ。


クロエはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、エルザ様」


エルザは微笑んだ。


「ごゆっくりお過ごしください」


その笑顔に温度はなかった。


数日後。


クロエはすっかり公爵邸に馴染んでいた。


応接室では高価な茶葉を飲み、庭園では散歩を楽しみ、使用人たちに次々と命令を出している。


午後。


エルザは執務室で帳簿を確認していた。


そこへクロエが現れる。


「エルザ様」


「何かしら」


「春の新作ドレスが欲しいんです」


クロエは頬を染めて言った。


「王都の仕立て屋が素敵な生地を入荷したそうで」


「そう」


「でもお金が少し足りなくて」


エルザは帳簿を閉じた。


「個人予算からですか?」


「いいえ、公爵家の予算から」


当然のように答える。


そこへリュシアンも入ってきた。


「ちょうどよかった」


彼は椅子へ腰掛ける。


「クロエの件なんだが」


エルザは黙って待った。


「少し融通してやってくれ」


「領地予算から?」


「問題ないだろう」


リュシアンは笑う。


「お前は数字に強いんだから」


エルザは視線を落とした。


机の上には膨大な帳簿。


冬の除雪費。


農地維持費。


災害対策費。


孤児院支援費。


すべて彼女が管理している。


「今年は寒波の予測が出ています」


「だから?」


「予備費を削るのは危険です」


クロエが悲しそうな顔をした。


「私のせいで迷惑をかけてしまうんですね……」


「そんなことはない!」


リュシアンが即座に否定する。


そしてエルザを見る。


「クロエには頼れる者がいない」


その言葉を聞いた瞬間。


なぜか遠くから聞こえるように感じた。


「お前は強い」


リュシアンは続ける。


「だから少しくらい譲ってやれ」


静寂。


暖炉の薪がぱちりと弾ける。


窓の外では雪が降っていた。


エルザはしばらく黙っていた。


以前なら説明しただろう。


予算の仕組みを。


危険性を。


未来の損失を。


何時間でも。


だが今は違う。


胸の奥で何かが閉じていく。


『乾燥ストレスを確認』


頭の奥で声が響いた。


『水分損失率上昇』


『気孔閉鎖を推奨』


植物は乾燥に襲われると気孔を閉じる。


水を失わないために。


生き残るために。


エルザはゆっくり微笑んだ。


「分かりました」


リュシアンは満足そうに頷いた。


「そうか」


「好きに使ってください」


クロエが嬉しそうに笑う。


「ありがとうございます!」


その声を聞きながら、エルザは静かに思った。


もう説明する必要はない。


理解してもらう必要もない。


期待する必要もない。


その夜。


エルザは一人で書斎にいた。


濃紺のドレスの上から厚手のショールを羽織り、暖炉の火を見つめる。


机の上には大量の書類。


契約書。


財産目録。


融資契約。


持参金台帳。


領地管理記録。


彼女は一本の羽根ペンを手に取った。


さらさらと文字を書き込む。


自分名義の資産。


実家由来の財産。


会計魔導士としての特許権。


すべてを分類していく。


誰にも気付かれないように。


淡々と。


正確に。


冷静に。


マリアがお茶を運んできた。


「奥様、もう夜更けです」


「ありがとう」


湯気の立つ紅茶から林檎とシナモンの香りが漂う。


マリアは机の書類を見て眉をひそめた。


「何をなさっているのですか」


エルザは紅茶を一口飲んだ。


温かい。


けれど胸の中は静かな冬だった。


「整理よ」


「整理?」


「いつか必要になるかもしれないから」


マリアは意味が分からなかった。


しかしその横顔を見て言葉を失う。


エルザは泣いていなかった。


怒ってもいなかった。


ただ静かだった。


あまりにも静かだった。


窓の外では雪が降り続いている。


その白さは世界中の音を吸い込んでしまうようだった。


エルザは再び羽根ペンを走らせる。


一枚。


また一枚。


書類を整理する。


胸の奥で何かが完全に閉じていく。


『気孔閉鎖完了』


『感情消費を最小化します』


『個体維持を優先します』


エルザは小さく目を閉じた。


暖炉の火が揺れる。


静かな冬の夜だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ