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第6話 完全落葉

第6話 完全落葉


その朝、公爵邸は静かだった。


昨夜から降り続いた雪が庭園を真っ白に覆い、窓の外の世界は音を失ったように見える。


空は淡い灰色。


冬の朝特有の冷えた光が食堂へ差し込んでいた。


長いテーブルには朝食が並んでいる。


焼きたてのパン。


蜂蜜入りのヨーグルト。


半熟卵。


燻製肉。


温かな野菜のスープ。


香ばしい匂いが広がっていた。


リュシアンは新聞を広げながらコーヒーを飲んでいる。


クロエは苺ジャムを塗ったパンを嬉しそうに頬張っていた。


まるで何事もない朝。


平和な朝だった。


少なくとも二人にとっては。


やがて扉が開く。


エルザが入ってきた。


深い黒のドレス。


装飾はほとんどない。


胸元には宝石もない。


冬至梅の刺繍もない。


代わりに銀色の細い鎖が首元で静かに光っていた。


マリアはその姿を見て息を呑んだ。


何かが違う。


決定的に。


エルザは静かに席へ着く。


そして一枚の封筒をテーブルの中央へ置いた。


「何だ?」


リュシアンが尋ねる。


「確認してください」


彼は封を開いた。


書類を取り出す。


一枚。


二枚。


三枚。


読み進めた顔から徐々に表情が消えていく。


クロエが首を傾げた。


「どうしたんですか?」


リュシアンが紙を見つめる。


そして。


吹き出した。


「ははっ」


乾いた笑いだった。


「お前、何をふざけている」


クロエも覗き込む。


そこには明確に書かれていた。


離婚届。


財産分与請求書。


慰謝料請求書。


個人資産返還請求書。


王国法に完全準拠した書類。


会計魔導士エルザが作成した完璧な法的文書だった。


リュシアンは笑い続ける。


「冗談だろう?」


「いいえ」


「昨日の件で怒っているのか?」


「怒ってはいません」


「ならなぜだ」


エルザは静かに紅茶を口へ運んだ。


湯気が立つ。


林檎とシナモンの香り。


不思議なほど穏やかな朝だった。


リュシアンは苛立ち始める。


「エルザ」


「はい」


「馬鹿な真似はやめろ」


「馬鹿な真似?」


「そうだ」


彼は笑う。


まだ状況を理解していない。


「夫婦喧嘩で離婚など聞いたことがない」


クロエも頷く。


「そうですわ。エルザ様、きっとお疲れなんです」


エルザは二人を見た。


何の感情も湧かなかった。


本当に。


何も。


「私は疲れていません」


「なら——」


「終わっただけです」


静寂。


時計の針の音だけが響く。


リュシアンが眉をひそめる。


「終わった?」


エルザはゆっくり立ち上がった。


窓の外には雪景色。


冬の庭園。


白い世界。


「植物は厳しい冬が来ると、生き残るための準備をします」


「何の話だ」


「養分を無駄に消費しないためです」


彼女の声は穏やかだった。


まるで講義でもしているように。


「乾燥や寒さというストレスを受け続けると、植物はアブシシン酸を分泌します」


クロエが不安そうにリュシアンを見る。


だがエルザは続けた。


「そして離層を形成します」


「エルザ」


「不要になった葉を切り離すために」


その瞬間。


リュシアンは初めて嫌な予感を覚えた。


エルザの瞳が。


あまりにも冷たかった。


怒っているのではない。


悲しんでいるのでもない。


ただ。


完全に終わっている。


「植物が冬を生き抜くために」


エルザは静かに言った。


「養分を吸い取るだけの不要な葉を落とすのは当然のことです」


リュシアンの顔から笑みが消える。


「お前……」


「私は」


エルザは真っ直ぐ彼を見た。


「あなたという不誠実を落葉させます」


静寂。


誰も動けなかった。


暖炉の火だけが揺れている。


クロエが震える声を出す。


「わ、私のせいですか……?」


「違います」


エルザは即答した。


「原因ではありません」


クロエが目を見開く。


「では……」


「結果です」


その言葉は刃より鋭かった。


リュシアンが立ち上がる。


椅子が激しい音を立てた。


「待て!」


初めて焦りが混じる。


「こんなことで離婚など認めない!」


「認める認めないではありません」


「私は公爵だぞ!」


「だから何ですか」


その返答に彼は言葉を失った。


エルザは続ける。


「契約は終了です」


契約。


その言葉が重く響く。


夫婦ではなく。


契約。


完全に他人を見る言葉だった。


リュシアンの顔色が変わる。


「本気なのか」


「本気です」


「……」


「もう二度と変わりません」


そしてエルザは窓へ向かった。


白い雪景色が広がっている。


彼女は目を閉じる。


冬至梅の魔力が胸の奥で輝いた。


公爵領の土。


農園。


森林。


河川。


領地全体へ張り巡らされた魔力の根。


十年間。


彼女が支えてきたもの。


誰にも気付かれないように。


誰よりも深く。


静かに。


「エルザ?」


リュシアンが不安そうに呼ぶ。


次の瞬間だった。


ブワッ。


銀色の光が食堂を満たした。


窓ガラスが震える。


シャンデリアが揺れる。


外の雪が舞い上がる。


大地の底から膨大な魔力が引き抜かれていく。


「なっ……!」


リュシアンが青ざめる。


クロエが悲鳴を上げた。


エルザの髪が風もないのに揺れる。


銀色の光が彼女の周囲を包んでいた。


『完全落葉を実行』


頭の奥で声が響く。


『養分回収完了』


『個体保全を最優先します』


十年間。


公爵領を支えていた冬至梅の魔力。


それが今。


すべて彼女の中へ戻っていく。


食堂の窓の外。


庭園の草花が一斉にしおれた。


木々の枝に霜が広がる。


異常な寒気が流れる。


リュシアンの顔から血の気が引いた。


「まさか……」


彼は初めて理解した。


エルザが支えていたのだ。


領地を。


財政を。


人々を。


自分を。


全部。


エルザは振り返らない。


マリアが涙を浮かべて頭を下げる。


「奥様」


「ありがとう」


エルザは優しく微笑んだ。


そして歩き出す。


扉へ向かって。


雪の世界へ向かって。


リュシアンが叫ぶ。


「待て!」


だが彼女は止まらない。


「エルザ!」


返事はない。


扉が開く。


冷たい冬の風が吹き込んだ。


そして。


扉が閉まる。


静寂。


食堂には凍りついた空気だけが残った。


リュシアンは動けなかった。


テーブルの上には離婚届。


そして冷めていく朝食。


窓の外では雪が降り続いている。


長い冬が始まった。


今度は。


彼らのための冬だった。




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