第13話 偽りの病斑――寄生植物は宿主を替える
第13話 偽りの病斑――寄生植物は宿主を替える
クロエが公爵邸を出たのは、リュシアンから宝石を売って生活費を補うよう言われた翌朝だった。薄桃色の旅行着に白い毛皮の外套を重ね、侍女一人と革張りの旅行鞄を三つ連れて、南部行きの乗合馬車へ乗り込んだ。鞄の中にはドレスや香水のほか、公爵邸から持ち出した銀食器と、エルザの冬至梅のブローチが入っていた。
長旅の途中で食べたのは、駅舎で買った干し葡萄入りの硬いパンだけだった。クロエは一口かじるたびに顔をしかめ、細かくちぎったパンを窓の外へ捨てた。公爵邸では料理人が焼きたての菓子を用意し、クロエが半分残しても誰も注意しなかった。旅費を節約するため二等席に座る生活など、彼女には一日でも我慢できなかった。
「南部へ着いたら、もっとまともな宿を取りましょう」
侍女のニナが小さな財布を確かめながら答えた。
「お嬢様、残っているお金では、安宿に三泊するのが限界です」
「銀の燭台を売ればいいわ」
「あれは公爵家の紋章が入っています。売れば盗品だと分かります」
「リュシアン様から贈られたものよ。私がどうしようと勝手でしょう」
「公爵様は、貸しただけだとおっしゃっていました」
クロエは返事をせず、外套の襟を鼻まで引き上げた。馬車の中には乗客が持ち込んだ鶏籠があり、羽毛と糞の臭いが充満している。向かいの農婦が茹で卵を食べ始めると、硫黄に似た匂いまで加わった。クロエは気分が悪いと訴えたが、席を譲る者はいなかった。
南部の交易都市セラムへ着くと、クロエはすぐに大商人バルドの名を尋ねた。バルド商会は香水、化粧品、薬草を扱い、王都の貴族にも多くの顧客を持っている。主人のバルドは珍しい商品へ惜しみなく金を出す一方、利益にならない相手とは昼食の途中でも席を立つ男として知られていた。
クロエは残った金の大半を使い、商会の向かいにある宿で一番安い部屋を借りた。寝台の敷布には前の客がこぼした葡萄酒の染みがあり、窓辺には洗った下着が二枚干されていた。ニナが荷物を片づける間、クロエは持参した香油を髪へ塗り、皺になった青いドレスへ着替えた。
「そのブローチをつけるのですか」
ニナは化粧台に置かれた冬至梅のブローチを見た。白銀の枝に小さな真珠が並び、中央には冷たい光を宿した水晶がはめ込まれている。エルザが公爵家へ嫁ぐ際、実家から持参した魔力の核だった。
「これがなければ、バルド様に会ってもらえないでしょう」
「奥様から取り上げた品ではありませんか」
「一晩だけ貸してほしいとお願いしたのよ。でも、エルザはそのまま出ていったわ。いらないから置いていったのでしょう」
「宝石箱の二重底に隠したのは、お嬢様です」
クロエは振り返り、ニナをにらんだ。ニナは慌てて視線を下げたが、床に置いた鞄へ衣服を詰め直す手は止めなかった。
「嫌なら、公爵邸へ戻ればいいわ」
「戻るための馬車代がありません」
「では、余計なことを言わないで」
翌日、クロエはバルド商会を訪れた。応接室には南部産の赤い絨毯が敷かれ、棚には色とりどりの香水瓶が並んでいた。暖炉のそばでは柑橘の皮を乾燥させており、甘酸っぱい香りが部屋を満たしている。バルドは金糸の入った派手な上着を着て、朝食代わりの蜂蜜菓子を指先でつまんでいた。
「元公爵令嬢だと聞いたが、紹介状はお持ちかな」
「公爵令嬢ではありません。公爵家のクロエと申します」
「公爵夫人でも、ご息女でもない。では、どのようなご関係で?」
クロエは目を伏せ、膝に置いたハンカチを握った。鏡の前で何度も練習した通り、唇を震わせ、言葉の途中で息を詰まらせる。薄く塗った白粉が涙で崩れないよう、泣くふりをしながら目元には触れなかった。
「幼い頃に両親を亡くし、従兄のリュシアン様に引き取られました。ところが、あの方は公爵家の財政が傾くと、私の財産まで奪ったのです。着替えも満足に持たされず、私は追い出されました」
バルドはクロエの青いドレスと白い毛皮を順番に眺めた。追い出された女性にしては服が上等だったが、彼は指摘せず、蜂蜜菓子の粉を皿へ払った。
「それはお気の毒に。しかし私は慈善家ではありません。商談でないなら、教会をご紹介しましょう」
「私には、特別な魔力があります」
クロエは胸元から冬至梅のブローチを外し、卓上へ置いた。水晶から冷気が流れ、そばに置かれた茶の表面に薄い氷が張る。バルドの目つきが変わり、彼は菓子を皿へ戻した。
「これは?」
「病弱な女性の体を休ませ、肌を整える魔力です。私も幼い頃から体が弱く、この力に助けられてきました」
それは半分だけ本当だった。クロエは公爵邸にいた頃、エルザが冬至梅の魔力を使って傷んだ薬草を休眠させ、回復を待つ場面を見ていた。詳しい配合は知らなかったが、ブローチを水へ浸すと、わずかな魔力が溶け出すことも覚えていた。
「肌を整えると言われても、証拠が必要だ」
「そちらの鉢植えを使ってください」
窓辺には、葉の先が茶色くなった南方産の花が置かれていた。クロエは水差しへブローチを浸し、その水を鉢へ注いだ。数分後、しおれていた葉が硬くなり、褐色部分の広がりが止まった。
植物が回復したわけではなかった。冬至梅の休眠魔力によって成長も損傷も一時的に止まっただけである。しかしバルドは、葉を裏返して確かめると、満足そうに顎を撫でた。
「面白い。化粧品へ応用できるかもしれない」
「私には、この力の扱い方が分かります」
「では、共同で商品を作りましょう」
バルドはその日のうちに契約書を用意した。クロエは売上の七割を要求し、さらに商会が住居と衣服を提供する条件を加えさせた。バルドは眉を上げたものの、冬至梅の魔力が本物だと分かると承諾した。
「随分と強気ですな」
「私にしか作れない商品ですもの」
「よろしい。ただし、商品の安全性については、魔力を提供するあなたにも責任を負っていただく」
「もちろんです。私の力で害が出るはずはありません」
クロエは契約書を最後まで読まず、署名欄へ大きく名前を書いた。七割という数字だけを確認し、その下にある共同責任の条項には目を通さなかった。契約が成立すると、バルドは祝いの葡萄酒を開け、鴨肉の香草焼きと茸のパイを用意させた。
クロエは久しぶりの温かい食事に機嫌を直し、鴨肉の皮だけを切って食べた。ニナは使用人用の台所で豆のスープを受け取り、硬いパンと一緒に黙って口へ運んだ。その夜、クロエは商会が用意した客室の羽毛寝台で眠り、ニナは廊下に置かれた簡易寝台へ薄い毛布を敷いた。
ひと月後、冬至梅の魔力を混ぜた美容液「白雪の雫」が発売された。乳白色の瓶には銀色の梅が描かれ、眠っている間に肌を休ませるという宣伝文句が添えられた。クロエは新しい赤紫色のドレスを着て発表会へ現れ、自らを病弱な女性を救う慈善家だと紹介した。
「こちらを一滴つければ、乾燥した肌が穏やかに休み、美しい白さを取り戻します」
試した女性たちの肌は、翌朝には白く滑らかになっていた。赤みや吹き出物が目立たなくなり、化粧のりもよくなった。王都から来た伯爵夫人が十本まとめて購入すると、ほかの客も競うように金貨を出した。
商会には注文書が積み上がり、クロエのもとには毎週、大きな革袋に入った配当金が届いた。彼女は宿を出て、噴水のある屋敷へ移った。衣装部屋には新しいドレスが並び、食卓には朝から果物の砂糖煮、柔らかい白パン、牛乳入りの紅茶が用意された。
「やっぱり、私は特別だったのよ」
クロエは林檎の砂糖煮を半分だけ食べ、残りを皿の端へ寄せた。
「リュシアン様も、エルザも、私の価値が分からなかっただけだわ」
ニナは朝食の皿を片づけながら、机の上に置かれた冬至梅のブローチを見た。使うたびに中央の水晶は白く濁り、銀の枝にも細い亀裂が増えている。
「最近、魔力が強くなっていませんか」
「たくさん作っているのだから、強くするのは当然でしょう」
「最初は大樽一つに一度だけ浸していました。今は三度も浸しています」
「薄いと効果が出るまで時間がかかるのよ。お客様は、朝までに白くなる商品を求めているの」
「でも、エルザ様は薬草の種類に合わせて濃度を変えていました」
クロエは紅茶の匙を皿へ落とした。甲高い音が響き、ニナの肩が跳ねる。
「あの女の名前を出さないで。私の魔力で作っている商品よ」
最初の異変は、発売から六週間後に現れた。白雪の雫を毎晩使用していた子爵夫人の頬に、褐色の斑点が浮かんだのである。数日後には別の客からも、皮膚が硬くなった、眉毛が抜けた、頭皮が冷たく感じるという訴えが届いた。
バルドは苦情の手紙を机へ並べ、クロエを商会へ呼び出した。応接室には以前と同じ柑橘の香りが漂っていたが、窓辺の鉢植えは葉をすべて落としていた。あの日、休眠魔力を与えられた花である。
「どういうことです、クロエ様」
「使い方を間違えたのではありませんか」
「全員が同じ間違いをしたと?」
「美しくなるためには、多少の変化はつきものです。褐色の斑点なら、白粉で隠せるでしょう」
バルドは分厚い指で机を叩いた。苦情の手紙が揺れ、その横にあった焼き菓子から胡桃が一粒落ちた。
「髪まで抜けた女性に、白粉を渡して済ませるつもりですか」
「量を減らして売ればいいではありませんか」
「すでに王立植物監査院へ通報されています」
クロエは椅子から立ち上がった。赤紫色のドレスの裾が卓上の茶器へ引っかかり、冷めた紅茶が絨毯へこぼれた。甘い香水と濡れた茶葉の匂いが混じったが、誰も片づけには来なかった。
「私は病人です。取り調べなど受けられません」
「昨日、舞踏会で三時間踊ったと新聞に載っていました」
「あれは体調のよい時間だけです!」
「都合のよい体調ですな」
翌朝、王立植物監査院の調査官たちが商会へ入った。商品、原料、製造記録はすべて押収され、客室にいたクロエも事情聴取を受けることになった。主任監査官のイレーネは、濃紺の制服の上から白い作業衣を着ていた。袖には薬液の染みがいくつも残り、髪は邪魔にならないよう頭の後ろで固く束ねている。
検査の結果、白雪の雫には強い休眠魔力が含まれていると判明した。使用直後に肌が白く見えたのは、血流と細胞の活動が一時的に抑えられたためだった。使い続ければ皮膚の更新が妨げられ、古い細胞や色素が斑点として残る。毛根まで休眠状態に入ったため、髪や眉毛が抜けた者もいた。
「この魔力は、傷んだ組織を一時的に休ませるためのものです。美容薬へ混ぜて毎日使うものではありません」
イレーネの説明を聞いても、クロエは椅子の背へもたれたままだった。朝食を食べ損ねたため、机に用意された乾いたビスケットをつまみ、少しずつ口へ運んでいる。
「製造したのはバルドです。私は頼まれたから、少しお手伝いしただけです」
「あなたが魔力を提供したのですね」
「頼まれて断れなかったのです。バルドは大商人ですもの。身寄りのない私が逆らえるはずはありません」
「身寄りがないというのも、おかしな話だ」
同席していたバルドが吐き捨てるように言った。
「あなたは公爵家の従妹でしょう。しかも、売上の七割を受け取っている」
「そんな契約は知りません」
「七割を要求したのはあなたです!」
クロエはハンカチを目元へ当て、肩を震わせた。涙は出ていなかったが、これまで多くの者はその仕草を見れば声を和らげた。しかしイレーネは表情を変えず、押収した帳簿と契約書を机へ置いた。
「こちらが売上帳簿です。販売開始からの六週間で、あなたは金貨三千二百枚を受け取っています。こちらには衣服代、屋敷の賃借料、馬車代も記録されています」
「それはバルドが勝手に……」
「そして、こちらが共同事業契約書です」
イレーネは契約書を開き、最終頁をクロエへ向けた。売上の七割をクロエが受け取ること、魔力の安全性についてクロエが責任を負うこと、被害が生じた場合には共同で賠償することが書かれている。その下には、飾りの多いクロエの署名があった。
「これは、よく読まずに署名したのです」
「署名とは、読んで同意したことを示すものです」
「難しい言葉ばかりで、私には分かりませんでした」
「あなたは利益の割合だけは、正確に理解していたようですね」
クロエの指からビスケットが落ち、薄い青色のドレスへ粉が散った。彼女は慌てて払い落としたが、油を含んだ粉は胸元へ白い染みを残した。部屋の外では、被害を訴えに来た女性たちの声が次第に大きくなっていた。
「私だって被害者です。リュシアン様に追い出され、バルドに利用されました。私には頼れる人がいなかったのです」
「頼ることと、責任を渡すことは違います」
イレーネは冬至梅のブローチを証拠袋へ入れた。白く濁った水晶から冷気が漏れ、袋の内側に細かな霜がついた。
「寄生植物は、自分で十分な養分を作れないため、吸器を宿主へ差し込んで水分や養分を得ます。しかし宿主を替えたからといって、寄生していた事実が消えるわけではありません」
「私を寄生植物だと言うのですか」
「植物の話をしております。ただし、商品を作った場所から逃げれば責任まで切り離せると考えているのなら、よく似ています」
イレーネはクロエの署名を指で示した。
「寄生植物にも、生えた場所についての責任はあります」
その日の午後、バルド商会には営業停止命令が下された。売上金とクロエの屋敷は被害者への賠償に充てるため差し押さえられ、衣装部屋に並んでいたドレスにも一着ずつ封印札が貼られた。クロエは着替えとして認められた地味な茶色のワンピース一枚を抱え、寝室の中央に立ち尽くした。
ニナは自分の小さな鞄へ二着の服と櫛を入れていた。廊下には昼食の残りである冷えた野菜スープが置かれていたが、クロエは一口飲んで「味がしない」と押し返した。
「ニナ、これからどこへ行けばいいの」
「私は故郷へ戻ります」
「私を置いていくの?」
「三か月分のお給金をいただいていません。これ以上は働けません」
「あなたまで私を見捨てるのね」
ニナは荷物を持ち上げ、扉の前で振り返った。毎朝結っていたクロエの髪はほどけ、香油を塗っていない毛先が肩の上で乱れている。化粧台には使いかけの白雪の雫が置かれ、鏡の前には朝の白パンが硬くなったまま残されていた。
「お嬢様は、誰かがそばにいる間、その人から何をもらえるかばかり考えていました。だから誰かが去るたびに、見捨てられたと思うのでしょう」
「説教など聞きたくないわ」
「はい。お嬢様は、いつも聞きたくないことだけは、よくお分かりになります」
ニナが部屋を出ると、クロエは呼び止めなかった。窓の外では監査院の馬車が待ち、没収された商品の木箱が次々に積み込まれている。白雪の雫と書かれた乳白色の瓶は、夕方の光を受けて美しく輝いていた。
その中身が多くの女性を傷つけたことを、瓶の外側から見分けることはできなかった。窓辺に置かれた鉢植えにも、最初は病斑が一つあるだけだった。しかし葉を裏返すと、白い寄生根が茎の奥まで入り込み、残っていた養分をすべて吸い上げていた。




