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第12話 頂芽優勢――上に立つ者が芽を潰す

第12話 頂芽優勢――上に立つ者が芽を潰す


エルザが公爵邸を去ってから四か月目の朝、リュシアンは執務机に積まれた書類の山を前にして、三杯目の濃い珈琲を飲んでいた。白いシャツの襟は片方だけ折れ、深緑色の上着には昨日の夕食でこぼした肉汁の染みが残っている。銀盆に載せられた朝食には、冷えた目玉焼きと黒パン、それに薄く切った燻製肉が用意されていたが、手をつけたのは珈琲だけだった。部屋には焦げた豆と古いインクの匂いがこもり、暖炉の火は薪を足す者がいないまま消えかけていた。


机の上には、領内の役所から届いた申請書や報告書が隙間なく並んでいた。橋の修繕、穀物倉庫の鍵の交換、診療所で使う包帯の購入、除雪用の馬車の修理まで、どれもリュシアンの署名を待っている。以前は各部門の責任者が予算の範囲内で判断し、月末にエルザが監査していた。ところがリュシアンは、離婚後最初の会議で、すべての決裁権を公爵本人へ集めると宣言していた。


「公爵家の主人は俺だ。今後は、どのような支出も俺の許可なく行うな」


あの時、役人たちは反対しなかった。反対すれば、エルザの味方をしていると疑われるからである。リュシアンは全員が自分の指導力を認めたのだと思い、署名用の金色の羽根ペンまで新調した。しかし四か月が過ぎた今、その羽根は珈琲の飛沫で茶色く汚れ、机の端で乾いていた。


扉を叩く音がして、財務官のマティアスが入ってきた。彼は灰色の制服の上に、妻が編んだらしい不揃いな赤い襟巻きを巻いている。右手には新しい書類の束を抱え、左手には布に包んだ昼食用のパンを持っていた。


「北部の穀物倉庫から、屋根の修繕許可を求める申請が届いております」


「また書類か。雨漏りくらい、現場で直させろ」


「現場の判断による支出を禁じたのは、公爵様でございます」


「緊急時は別だと分からないのか」


「何を緊急とみなすかについても、公爵様の決裁を得るよう命じられております」


マティアスは淡々と答え、書類の束を机へ置いた。下になっていた請求書が横へ滑り、冷めた目玉焼きの皿へ落ちる。黄身の脂が紙へ丸く染み込み、リュシアンは舌打ちして書類をつまみ上げた。


「役人なら、それくらい自分で考えろ」


「考えて決めると、越権行為だと叱責されます」


「俺を責めているのか」


「事実を申し上げております」


リュシアンは羽根ペンを取り、屋根の修繕申請へ乱暴に署名した。予算欄には銀貨四百枚と書かれていたが、彼は金額を確認しなかった。その下には三社の見積書が添えられており、最も安い業者を選ぶための比較表もついていた。エルザが作った様式だったが、リュシアンは頁をめくることなく、書類をマティアスへ突き返した。


「これでいいだろう。次からは、要点だけ口頭で伝えろ」


「口頭で伺いを立てますと、記録がないから認められないとおっしゃいました」


「ならば書類にしろ。ただし、俺がすぐ分かるように書け」


「承知いたしました。公爵様が何を分かり、何を分からないかを、先に一覧にしていただけますか」


マティアスの声に皮肉はなかった。それだけに、リュシアンの頬は熱くなった。彼は机を拳で叩き、銀の匙を床へ落とした。匙は絨毯の上を転がり、三日前から落ちたままになっていたボタンの横で止まった。


「もういい。下がれ!」


「失礼いたします」


マティアスは一礼し、布包みのパンを抱えて出ていった。扉が閉まる直前、廊下で待っていた役人が「話はできたか」と小声で尋ねるのが聞こえた。マティアスは「屋根は直せる。次は診療所の包帯だ」と答え、二人の足音は遠ざかっていった。


リュシアンは冷めた黒パンをつかみ、苛立ちに任せて噛みちぎった。乾いた生地が口の中の水分を吸い、飲み込もうとすると喉に引っかかった。彼は珈琲を流し込み、積み上がった書類の中から、エルザが残した引き継ぎ帳簿を引っ張り出した。


帳簿は全部で十二冊あり、背表紙には財務、農政、雇用、医療、教育、道路管理と書かれている。文字は小さかったが、項目ごとに色分けされ、必要な書類の保管場所も記されていた。リュシアンは財務の帳簿を途中から開き、資金繰り表を数行読んだところで投げ出した。


「わざと難しく書いたに違いない。あの女は、俺が困ることを予想していたんだ」


呼び鈴を鳴らすと、若い侍従のルカが入ってきた。以前ならすぐに老執事のベルナールが来たが、この頃は腰痛を理由に、若い者へ仕事を任せることが増えていた。ルカは大きすぎる制服を着ており、袖口から指先しか出ていない。


「ベルナールを呼べ」


「執事長は、使用人の給与台帳を確認しております」


「俺より給与台帳が大事なのか」


「どちらが大事かは、僕には決められません」


「では、俺が呼んでいると伝えろ」


ルカが走り出そうとすると、長い裾を踏んでよろめいた。彼は壁へ手をついて転倒を免れ、赤くなった顔で制服を引き上げる。以前は成長に合わせて年に二度、使用人の制服を仕立て直していたが、今期の被服費はリュシアンが無駄だと判断して削減していた。


「そのだらしない服装は何だ」


「兄のお下がりです。新しい制服の申請は、先月却下されました」


「仕事ができれば服など何でもいい。早く行け」


ルカが退室してからしばらくすると、ベルナールが静かに入ってきた。黒い執事服はきちんと整えられていたが、左の肘には目立たないよう同色の布で継ぎが当てられている。白髪は油で撫でつけられ、いつも胸元につけていた銀時計はなくなっていた。使用人の給与が一週間遅れた際、若い侍女たちへ金を貸すために質へ入れたことを、リュシアンだけが知らなかった。


「この帳簿は何だ。こんな複雑なものを残されても使えない」


「奥様がお作りになった引き継ぎ帳簿でございます」


「それは分かっている。もっと簡単な説明書はないのか」


ベルナールは財務帳簿を受け取り、表紙を開いた。最初の頁には赤い革紐が挟まれ、その直後に「初めて管理する方へ」と大きな文字で書かれた手順書が綴じられていた。収入、支出、決裁、保管の四項目には絵入りの説明までついている。


「こちらにございます」


「なぜ今まで教えなかった」


「奥様が邸を出られた翌朝、この帳簿と手順書の存在をご説明いたしました」


「俺は聞いていない」


「公爵様は、女の書いた説明書に頼る必要はないとおっしゃいました」


リュシアンの手が止まった。言われてみれば、そんな会話をした覚えがあった。あの日はクロエが新しい屋敷を探すと言って泣き、馬車を用意させる騒ぎが起きていた。ベルナールが帳簿を持って立っていたことは覚えているが、何を説明していたかまでは聞いていなかった。


手順書の次の頁には、一日の仕事が朝、昼、夕方に分けて書かれていた。緊急案件の条件、担当者へ任せてよい金額、判断に迷った場合の相談先まで明記されている。余白には、エルザの字で「一人ですべてを判断しないこと。現場の報告を聞き、担当者の専門知識を尊重すること」と記されていた。


「俺を無能だと言いたいのか」


「どなたが読んでも管理できるよう、簡単に書かれています」


「では、なぜ誰も俺を助けない!」


リュシアンが声を上げると、ベルナールは黙って上着の内側から一通の封書を取り出した。封はされておらず、表には辞職願と書かれている。紙の角には小さな油染みがあり、昨夜の夕食を取りながら書いたものだと分かった。


「奥様は、使用人が一人でも残る限り困らぬよう、すべて書き残されました。しかし公爵様は、ご自身で決めるとおっしゃりながら、結果が悪ければ部下を責められます。意見を求めながら、意に沿わぬ答えを申した者を担当から外されます」


「主人の方針に従うのが使用人の務めだ」


「従うことと、考えることを禁じられるのは違います」


ベルナールは辞職願を机の中央へ置いた。リュシアンは紙を見下ろしたまま、受け取ろうとしなかった。暖炉では最後の薪が崩れ、灰の匂いが室内へ広がった。


「お前まで俺を見捨てるのか。三十年もこの家に仕えただろう」


「三十四年でございます」


「ならば、最後まで責任を持て」


「私が初めて会計を任された時、先代公爵は失敗しても報告だけは早くしろとおっしゃいました。奥様も、分からないことを尋ねた者を叱ったことはございません。ですから、若い者たちは失敗を隠さず、改善する方法を考えられました」


「俺が失敗を許さない人間だと言うのか」


「公爵様は、他人の失敗は許されません。しかし、ご自分の失敗は他人に直させます」


リュシアンは椅子から立ち上がった。反論しようと口を開いたが、どの言葉も自分へ戻ってくる気がして、声にならなかった。ベルナールは机の隅に置かれた小さな鉢植えへ目を向けた。それはエルザが邸を去る前、管理方法を説明するために用意した月桂樹だった。


中央の枝だけが不自然に伸び、その下にある脇芽は小さいまま止まっている。リュシアンが一番高い芽だけを育てれば立派な木になると言い、庭師の忠告を聞かずにそのままにしていた。窓から遠い場所へ置かれ、水も不規則にしか与えられなかったため、葉の先は茶色く変色していた。


「植物には、頂芽優勢という性質がございます。上にある芽が成長すると、そこから働く植物ホルモンの影響で、下にある脇芽は伸びにくくなります」


「突然、何の話をしている」


「庭師から教わりました。頂芽を適切に切れば、脇芽が動き、枝は横へ広がるそうです。けれど上の芽だけへ養分を集めれば、下の芽は育ちません」


ベルナールは辞職願から手を離し、深く一礼した。


「公爵様が、ご自分以外の芽を摘み続けたからでございます」


翌週、ベルナールの辞職をきっかけに、七人の役人と十二人の使用人が公爵家を去った。リュシアンは裏切り者の名を記録させようとしたが、その名簿を作る書記官まで辞職していた。厨房では料理長がいなくなり、朝食には焦げた粥と塩辛い根菜の漬物が出された。洗濯室にはたたまれていないシャツが積まれ、左と右で色の違う靴下がリュシアンの寝室へ運ばれてきた。


「新しい者を雇えばいい!」


そう命じても、募集を担当する人事官はすでにいなかった。残ったルカが町の掲示板へ求人票を貼ったが、給与の支払いが遅れているという噂は領都中に広がっていた。応募に来たのは、経歴をごまかした男と、倉庫の鍵を盗んで前の職場を追い出された青年だけだった。


その頃、王都北部のエルザの農園には、次々と採用希望者が訪れていた。元財務官のマティアスは赤い襟巻きを妻に洗ってもらい、皺のない灰色の上着を着て面接へ来た。元公爵家の農政官、倉庫番、料理人、二人の侍女も、待合室代わりの農具小屋で熱い蕪のスープを飲んでいる。濡れた外套から立つ羊毛の匂いと、煮込んだ蕪の甘い匂いが混じり、小屋の窓は湯気で白く曇っていた。


エルザは全員を無条件で雇うことはしなかった。過去の勤務内容を確認し、何ができるか、何を学びたいかを一人ずつ尋ねた。公爵家を辞めたからという理由で優遇すれば、今度は彼女自身が新しい依存を作ることになるからである。


「公爵家で何を担当していましたか」


「農業用水路の維持管理です」


「自分の判断で改善したことはありますか」


若い農政官は膝の上で帽子を握り、しばらく黙り込んだ。革靴のつま先には乾いた泥がつき、上着の第三ボタンだけ色が違っている。彼は何度か唇を湿らせてから、申し訳なさそうに首を振った。


「ございません。提案書を三度出しましたが、公爵様から余計なことをするなと言われました。それからは、命じられた点検だけをしていました」


「では、今も改善案を覚えていますか」


「はい。雪解け水を一時的にためる貯水池を造れば、夏の乾燥期にも水を回せます」


「明日、現地を見てください。必要な土地と費用を調べ、あなたの名前で計画書を出しなさい」


青年は顔を上げた。すぐには返事をせず、握りしめていた帽子の形を両手で直した。


「私が決めてよろしいのですか」


「責任者として採用されたなら、まずあなたが考えてください。もちろん、間違えることもあるでしょう。その時は、間違えた理由まで報告してもらいます」


「失敗したら、解雇されませんか」


「隠せば処分します。考えた結果の失敗なら、次の方法を一緒に探します」


面接を終えた青年が外へ出ると、待っていた者たちが一斉に彼を囲んだ。何を聞かれたのか、雇ってもらえたのかと声が飛び交い、オットーが「騒ぐなら外でやれ。スープが冷める」と木杓子を振った。ノアは鍋の底から大きな蕪をすくおうとして、隣にいた元侍女と真剣に取り合っている。


その日の夕方、採用が決まった者たちは畑の端に集まった。エルザは中央だけが伸びた若い薬樹を示し、ノアに剪定を任せた。ノアが頂芽を切ると、見ていた元公爵家の役人たちは、小さく息をのんだ。


「一番高い芽を切ってしまって大丈夫なのですか」


マティアスが尋ねると、ノアは切った枝を指先で回しながら答えた。


「頂芽の働きが弱まれば、これまで抑えられていた脇芽が伸び始めます。一本だけを高く育てるのではなく、多くの枝へ光を当てたい時に行う方法です」


「人にも同じことが起こりますか」


「人間は植物ではありません。ただ、上にいる者が命令ばかりすれば、下にいる者が考えなくなることはあります」


エルザは剪定された薬樹の前で、採用者たちへ仕事の分担表を渡した。そこには担当者の名前だけでなく、それぞれが決定できる予算と範囲も書かれている。誰か一人が不在でも仕事が止まらないよう、代理を務める者の名前も添えてあった。


「ここでは、すべてを私へ尋ねる必要はありません。決められた範囲では、自分で考え、自分で決めてください。ただし、困った時は早めに相談してください。一人で抱えることを、責任とは呼びません」


「エルザ様のご命令と意見が違った場合は、どうすればよろしいでしょう」


マティアスの問いに、エルザは少し考えた。公爵家にいた頃の彼女も、領地を守るために一人で正しい答えを出そうとしていた。自分が間違えば全員が困ると思い込み、夜中まで帳簿を抱えていた。その姿を見たリュシアンは、エルザなら一人で平気なのだと都合よく信じた。


「根拠を示して、反対してください。私が正しいとは限りません」


「本当に反対してもよろしいのですか」


「同じことを何度も聞かないでください。その代わり、私も遠慮なく反対します」


マティアスが笑い、ほかの者たちからも小さな笑い声が上がった。オットーが農具小屋から夕食を知らせる鐘を鳴らし、煮込み料理の匂いが冷たい風に乗って流れてくる。作業員たちは仕事の話を続けながら、小屋へ向かって歩き始めた。


一週間後、剪定した薬樹の脇芽が動き始めた。これまで硬く閉じていた芽から薄緑色の葉がのぞき、左右へ小さな枝が伸びている。エルザは観察帳へ日付を書き、その横に担当者である青年の名前を記した。


同じ日の朝、公爵邸では、リュシアンが月桂樹の鉢を床へ倒した。誰も水を与えなかった土は乾ききり、割れた鉢の間から細い根がむき出しになった。中央の枝は高く伸びたままだったが、その先についた葉はすべて褐色に変わっていた。


リュシアンは呼び鈴を何度も鳴らした。しかし、倒れた鉢を片づける者も、枯れた理由を教える者も、もう部屋には来なかった。


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