第9話 持って行ける水
トゥールの丘へは、まだ上がれていない。
発つはずだった朝に、メジエから使いが来た。井戸の水で子どもが二人、腹を下したという。上流の空白は動かないが、腹を下した子は今日のことだ。板の白いところは、そのままにして、東へ向かった。
メジエの井戸は、二度通した。
一度目で赤が薄くなり、二度目で消えた。鉄気は炭がよく吸う。ただし炭が早く死ぬので、ここは七日で替えねばならない。
わたしは村の女に、そう言った。
「七日でございますか」
「はい。七日目に、六袋」
「うちらで、焼けますかね」
わたしは顔を上げた。
女は井戸の縁に手をついて、こちらを見ていた。疲れた顔は、疲れたままだ。ただ、目の位置が変わっていた。わたしの顔ではなく、樽の炭のほうを見ている。
「焼けます。窯は要りません。おこして、赤くして、土で伏せます」
「伏せる」
「途中で消すのです。燃やし切ると灰になります」
女は、しばらく考えていた。
それから、村の子どもを呼んで、なにか言いつけた。子どもが走っていって、しばらくすると、男が三人来た。皆、両手に枝を抱えていた。
その日、わたしは炭の焼き方だけを教えた。
濾し方は、教えなかった。聞かれなかったからだ。
けれど、帰り際、女がこう言った。
「白いもんが、洗えるようになりますかね」
「なります」
「なら、砂も洗いますよ。三度でしたね」
わたしは頷いた。
板を出して、メジエの丸の横に、小さく印を足した。
鉄気の点を三つ、消した。
消した跡が、板の上で少し白く残った。
帰りの荷車で、辺境伯が言った。
「修道院から、また来た」
「夕餉でございますか」
「四度目だ」
彼は前を向いたまま、手綱を持っている。
「断る理由が、もう無い」
「ございませんね」
「無いのだ」
わたしは荷台の縁に腰かけて、板を膝に載せていた。
この人は、断る理由が無いと言った。行かない理由ではなく、断る理由と。つまり、行くつもりでいる。行くつもりでいて、水が出てくることを考えている。
「閣下」
「なんだ」
「杯一杯ぶんでしたら、持って行けます」
彼が振り返った。
その晩、わたしは麻袋を縫った。
仕立屋の女に頼んで、目の細かい晒しを筒に縫ってもらう。長さは手のひら二つぶん。底のほうに細かい布、その上に砂、真ん中に砕いた炭、また砂、口のところに粗い布。
筒の口を紐で締める。
水を上から注ぐと、下から出る。
樽の三層を、そのまま小さくしただけのものだ。原理は何もない。ただ、量が入らない。杯二つぶんも注げば、砂が飽きる。
厨の卓で試していると、ノラが覗きに来た。
「なにそれ」
「小さい水汲み場です」
「持ち歩けんの?」
「はい。ただ、一度に二杯までです」
「二杯で足りんの」
「足りない場面もあります」
「じゃあ意味なくない?」
「一杯で足りる場面が、一つございます」
わたしは筒を持ち上げて、灯りに透かした。
人が見ている前で、一杯だけ飲まねばならない場面。八年、それを避けてきた人がいる。
ノラは、しばらくわたしの顔を見ていた。
「ふうん」
それだけ言って、筒を取り上げて、自分で水を注いだ。ひょろひょろと下から水が落ちる。ノラは受けた水を舐めて、顔をしかめた。
「まだ砂の味する」
「新しい砂は、最初の一杯を捨てます」
「先に言ってよ」
「申し訳ありません」
ノラは口をゆすいで、それから筒をわたしに返した。
「もう一本作りな」
「なぜですか」
「そういうのはさ、二本ないと不安なんだよ」
わたしは二本目を縫った。
夕餉は、館で開かれることになった。
修道院の院長が坂を下りて来られるほうが早い、と辺境伯が言ったからだ。本当は、逆のほうが礼にかなっている。
院長は、思っていたより背の低い、丸い方だった。灰色の衣に、銀の鎖。にこにこと笑いながら、卓に着くなり葡萄酒の壺を褒めた。
卓には、水差しが出た。
館の井戸の水だ。硬く、粒が残る。わたしは厨で、これを一度濾そうかと申し出て、辺境伯に止められた。
「今日は、いらん」
彼はそう言った。
卓の下で、彼の外套の内側に、麻の筒が入っている。
院長が杯を掲げた。
「では、閣下。ご領地の水に」
辺境伯は杯を取った。
そして、卓の下で筒を出し、杯の上でゆっくりと傾けた。
水が細く落ちた。
院長の目が、丸くなった。
「……閣下、それは」
「水だ」
「いえ、その、袋のようなものは」
「水を濾すものだ」
辺境伯は、それだけ言って、飲んだ。
喉が動いた。二度、三度。
咳は、出なかった。
彼は杯を置いて、口元を拭った。
卓に着いた者が、全員黙っていた。家令も、書記も、修道院から来た若い修道士も。
院長が、おそるおそる口を開いた。
「閣下は……水がお嫌いなのだと、皆で申しておりました」
「嫌いではない」
「では」
「飲めなかった」
院長が、瞬きをした。
「八年、飲めなかった。人前では」
「なぜ、仰らなかったのです」
「聞かれなかった」
卓が、静まりかえった。
それから、院長が笑い出した。腹を抱えて、椅子ごと後ろへ倒れそうになりながら、笑った。
「聞かれなかった、と! 八年、聞かれなかったから、黙っておられたのですか!」
「そうだ」
「三度も夕餉をお断りになったのは、それで!」
「そうだ」
「なんとまあ」
院長は目尻を拭って、それから急に真面目な顔になった。
「……して、閣下。その袋は、どちらで」
辺境伯は、卓の向こうの、わたしのほうを見た。
わたしは立っていた。給仕の後ろに、水番として立っていた。
「うちの水番が縫った」
院長がこちらを見た。
その目は、坂の上から記録を取りに来た日の目とは、少し違っていた。あの日、この人たちが見ていたのは奇跡だった。今、見ているのは袋だ。
「作り方を、教えていただけますかな」
わたしは、危うく返事をしそこねた。
「……はい」
声が、うまく出なかった。
「はい。お教えできます」
院長は頷いて、それから、少し首を傾げた。
「一つ、伺ってよろしいか」
「はい」
「あなたは、これを奇跡とお呼びにならない」
「呼びません」
「なぜです。呼んだほうが、あなたは楽でしょうに」
わたしは、筒の縫い目を見た。仕立屋の女が縫った、まっすぐな縫い目だ。
「奇跡は、お渡しできませんので」
院長は、しばらく黙っていた。
それから、卓の上の袋を両手で持ち上げて、灯りに透かした。中の砂が、袋の腹で沈んでいる。
「……なるほど。渡せるほうを、選ばれたわけだ」
夜が更けて、院長が坂を上っていったあと、辺境伯が厨に来た。
筒を返しに来たのだ。
「二杯目は、砂の味がした」
「一杯までです」
「そうか」
彼は筒を卓に置いて、それから、言いにくそうに言った。
「……八年ぶりに、卓で笑われた」
「はい」
「悪くなかった」
わたしは筒を布で拭きながら、頷いた。
この人は、笑われることを恐れていたのではない。恐れていたら、八年も隠さない。隠していたのは、聞かれなかったからだ。
聞かれなければ、誰も言わない。
王都の地下で三年、わたしが何をしていたかも、誰にも聞かれなかった。
わたしは筒を吊るして、乾かした。
翌朝、坂を早馬が下りてきた。
修道院の若い修道士だった。馬から転げるように降りて、息を切らして言った。
「王都より、巡察使さまがお発ちになったとの報せが。じき、こちらへ」
辺境伯が、厩の前で立ち止まった。
「用件は」
「二つ、と伺っております」
修道士は、わたしのほうを見た。
「一つは、聖印の返上。もう一つは——」
彼は言いよどんだ。
「もう一つは、辺境で偽の奇跡を行う者の、検分でございます」
【今日の水】メジエ村の井戸、二度通し。鉄気消えました。白いものが洗えます。
お読みいただきありがとうございます。
今日の主人公の発明品は、要するに携帯用の濾し器です。一杯しか濾せませんが、一杯あれば足りる場面というのが、人生にはときどきあります。
次話——王都から人が来ます。手順を見せられて、それでも奇跡だと言い張る人ではなく、手順を見せられて、なお異端だと言い張る人です。




