第8話 王都の朝
ヨナスは、五十年この大聖堂で働いている。
仕事は、地下の樽から水を汲み上げて、朝いちばんに聖水盤へ運ぶことだ。桶で四杯。腰が曲がってからは五杯に分けている。それだけの仕事で、五十年。
三年のあいだ、地下にはもう一人いた。
リゼット・オルレンド様。日の出の前に下りてきて、灯りを一つ点けて、樽の前で何かをなさっていた。
ヨナスは、それが何かを知らない。
布を張っておられた。砂を敷いておられた。炭を割る音がしていた。聞いても、あの方は「水の支度です」としかお答えにならなかったから、ヨナスもそれ以上は聞かなかった。下働きは、聞かないのが仕事である。
ただ、砂の袋が重いときには、運んだ。
年に何度か、川から洗った砂が届く。あの方は自分の小遣いで買っておられた。ヨナスがそれを地下へ担ぐと、いつも同じことを言われた。
「有難うございます、ヨナス。これで半年もちます」
半年。
最後に砂を運んだのは、去年の秋だった。
断罪から、ひと月あまりが過ぎていた。
新しい聖女様は、朝、祭壇の前で祈られる。
白い聖衣で、両手を聖水盤の上にかざして、目を閉じて、長く祈られる。作法は美しい。前の方より、ずっと美しい。前の方は祈祷の作法がお下手で、いつも短かった。
祈りが終わると、司祭が水を汲んで、瓶に詰める。それが王都じゅうへ配られる。
最初の半月は、誰も何も言わなかった。
二十日を過ぎた頃から、聖水盤の底が見えにくくなった。
ヨナスは毎朝それを見ている。見ているが、言わない。言えば「では、なぜ早く申さなかった」と言われる。五十年働いていると、それが分かる。
「ヨナス」
呼ばれて、振り向いた。
新しい聖女様が、祭壇の脇に立っておられた。十七。姉君によく似ておられる。似ているのに、手が違う。爪の際まで白い。
「地下の樽を、見せてもらえますか」
「地下は、埃っぽうございます」
「かまいません」
ヨナスは灯りを持って、先に立った。
石段を下りると、樽が六つ並んでいる。太いのが四つ、細いのが二つ。細いほうの上には、木の枠が渡してあって、布が張ってある。今は乾いて、ぱりぱりになっている。
聖女様は、その布に触れた。
「これは、何」
「存じません」
「姉が、使っていたものでしょう」
「使っておられました」
「何に」
ヨナスは黙った。
知らないのだ。本当に知らない。だが、その「知らない」を口にすると、この場は少し気まずくなる。なぜなら、知らないのはこの方も同じだからだ。
聖女様は樽の蓋を開けた。
覗き込んで、少し後ろへ下がられた。
「……底に、何か沈んでいます」
「砂でございます」
「砂?」
「砂と、炭でございます。前の方が、お入れになっておりました」
「水に、砂を」
「はい」
聖女様は、しばらく蓋を持ったまま立っておられた。
それから、こう仰った。
「取り除いてください。汚らわしい」
ヨナスは頭を下げた。
「明日までに、いたします」
言いながら、ヨナスは思っていた。あの方は、砂を入れておられたのではない。砂を通しておられたのだ。通す、というのは入れることとは違うのだろうと、五十年水を運んでいる者の勘で、なんとなく分かる。
だが、それを言葉にすることはできない。
できないから、明日、砂を捨てるのだろう。
その週のうちに、聖水が匂いはじめた。
最初に言い出したのは、洗礼を受けに来た赤子の母親だった。子が腹を下したという。次の週には三人になり、その次の週には数えるのをやめた。
大聖堂は、聖水盤を磨いた。
器が古いのだと大司教が仰ったからだ。大理石の縁を布で磨き、香油を塗り、祈祷を三日続けた。
水は、灰色のままだった。
ヨナスは一度だけ、司祭の一人を廊下で呼び止めた。
「あの、恐れながら。地下の樽の、細いほうを」
「なんだ」
「前の方が、布を張って、砂を敷いて、その、通しておられまして」
司祭は、書き物の束を抱え直した。
「ヨナス」
「はい」
「下働きが、水のことに口を出すな」
それだけだった。怒鳴られたのでもない。忙しかっただけだ。
ヨナスは頭を下げて、桶を持って地下へ下りた。
その日から、もう誰にも言わなかった。
司祭たちの言い方が、少しずつ変わっていった。
最初は「器が古い」。次に「季節のもの」。それから、誰が言い出したのか分からないうちに、こういう言い方になった。
——追われた者の、恨みではないか。
ヨナスは、その言葉を聞いたとき、桶を落としそうになった。
あの方が地下で何をしておられたのか、この大聖堂の誰も知らない。知らないまま、あの方のせいにする道だけが、先に見つかった。
聖印が無い、という話が出たのは、その頃だった。
宝物庫にない。聖女付きの侍女の荷にもない。
大聖堂は辺境へ書状を出した。返上せよ、十日以内に、と。ヨナスはその書状を書記が読み上げるのを、廊下の隅で聞いていた。
ヨナスは、あの日、広間にいた。
掃除の者は、儀式のあいだ柱の陰に控えている決まりだ。だから見た。
リゼット様が膝を折って、聖印を外して、床にお置きになるところを。
誰も拾わなかった。
殿下は、あの方が広間を出ていくのを見ておられた。侍女たちも、皆そちらを見ていた。床の上の小さな銀の輪を見ていた者は、たぶん、ヨナス一人だった。
儀式が終わったあと、床を掃いたのは、ヨナスの下で働く若い者だった。
ヨナスはその若い者に聞いた。
「あの日、床に落ちていたものを、どうした」
若い者は、しばらく考えて、言った。
「拾って、脇の卓に置きました。落とし物の卓に」
落とし物の卓。
三月経って誰も取りに来なければ、まとめて売られる。銀なら、なおさら。
ヨナスは何も言わずに、その場を離れた。
言えば、若い者が罰を受ける。若い者は決まりどおりにしただけだ。決まりどおりにすれば、聖印が売られる。そういう決まりが、この大聖堂には五十年前からある。
誰も、悪くはない。
誰も、覚えていなかっただけだ。
朝が来て、ヨナスは地下へ下りた。
桶を樽に沈める。引き上げる。
灰色。
昔の水だ。あの方が来られる前の、五十年ぶんの、当たり前の水。
ヨナスはその水を、いったん脇の溝へ捨てた。それから、もう一度汲んだ。
同じ色だった。
三度目も、同じだった。
当たり前だ。捨てて汲み直したところで、樽の中の水は同じ水だ。それくらいは分かっている。分かっているが、ほかに思いつくことがない。
ヨナスは桶を持ったまま、樽の前でしばらく立っていた。
乾いた布が、木の枠の上でぱりぱりと縮んでいる。
その下に、捨てそこねた砂が少し残っていた。指ですくうと、細かい。上等な砂だ。川で三度洗ったものだと、あの方が言っておられた。
三度、洗うのだそうだ。
なぜ三度なのか。
ヨナスは、聞かなかった。
その朝、祭壇では、新しい聖女様が祈っておられた。
両手を水の上にかざして、目を閉じて、長く、美しく。
水は澄まなかった。
アニエス・オルレンドは、目を開けた。開けてから、もう一度閉じた。
誰も見ていないと思ったのだろう。
彼女は、そっと水面に指を入れた。かき混ぜたのだ。混ぜれば、少しのあいだだけ、濁りが散って薄く見える。
柱の陰から、ヨナスはそれを見ていた。
姉君も、毎朝この盤の前で同じように屈んでおられた。
ただ、あの方が入れていたのは指ではなく、柄杓だった。柄杓で汲んで、光に透かして、それから飲んでおられた。
毎朝、いちばん最初に、ご自分で。
【今日の水】王都大聖堂・聖水盤。灰色。底が見えません。飲めません。
お読みいただきありがとうございます。
今日は主人公が一度も出てきません。出てこないのに、地下の樽の底に砂が残っています。だいたいの仕事は、こういう形でしか残らないのだと思います。
次話——辺境へ戻ります。東の村メジエの井戸と、人前で水が飲めない領主のための、ちょっとした工夫の話です。




