第7話 水の絵図
板に、炭で線を引く。
羊皮紙は高い。館の書記に一枚もらえるか聞いたら、顔色が変わった。だから、大工に薄い板を削ってもらった。炭なら、いくらでもある。
まず、セドラの町。丸を一つ。
その北に、泉。徒歩一刻半。
町の西を、川が流れている。サルド川という。上流は北東の丘のほうから来ていて、下流は隣の領へ抜ける。
わたしは川の線を引いて、その両脇に、井戸の丸を置いていった。
「これ、なに」
ノラが板を覗き込んだ。朝、砂を掻き終えたところだ。約束どおり、この子は毎朝来る。
「絵図です。水の」
「地図でしょ」
「地図は、道と町を描きます。これは水だけです」
ノラは板の上の丸を数えた。
「まだ六つしかないじゃん」
「十九まで描きます」
「十九?」
「領内の井戸の数です。閣下が仰いました。涸れかけが七、鉄気が四」
「よく覚えてんね」
「三年前に、王都の書庫で読みました」
ノラは、変な顔をした。
「三年前のこと、そんな覚えてる?」
「水のことだけです」
東の村へは、荷車で半日かかった。
メジエという。麦と、ほんの少しの葡萄を作っている村で、家が十二軒。井戸は一本きり。
覗くと、水面が遠かった。
桶を落として、引き上げる。上がってきた水は、赤い。
「鉄気ですね」
「鉄が入ってんの?」
「鉄の匂いのする水です。飲んでも死にませんが、煮ると鍋が黒くなります。長く飲むと、腹に来ます」
「セドラのと、どっちがひどい」
「ここのほうが」
村の女が、遠巻きにこちらを見ていた。井戸端に立つ余所者を、警戒しているのではない。ただ、疲れている顔だった。
「その水は、飲まないほうがいいよ」
女が言った。
「うちの子は、それで歯が黄色くなった」
「洗い物には」
「洗い物にゃ使う。白いものは、洗わない」
「白いものを洗うと、どうなりますか」
「赤くなる」
女はそれだけ言って、家の中へ入ってしまった。
赤くなる。だから麻の粗い布はあっても、晒しの白い布はこの村に無いのだ。仕立屋が「赤子の肌着に使うやつ」を一枚多くくれたのは、セドラだったからだ。
わたしは板を出して、メジエの丸を描き足した。丸の横に、小さく点を三つ。鉄気の印だ。
「あんた、それ描いてどうすんの」
「どの井戸が、どういう順で悪くなっているかを見ます」
「見て、どうすんの」
「……まだ、分かりません」
ノラは、ふうん、と言った。
「分かんないのに描くんだ」
「描かないと、分からないままですので」
その帰り、街道で荷馬車とすれ違った。
四頭立て。荷台に樽が並んでいる。樽の腹に焼き印。麦の穂と、水を表す波の意匠。
樽から、水の匂いがした。
御者台の男が、こちらを見て会釈をした。人のよさそうな、丸い顔の男だった。
荷馬車が止まった。
「そこの方。乗っていきなさるか。セドラまでなら、送りますが」
「歩けますので」
「遠慮しなさんな。帰りは空樽だ、荷は軽い」
空樽。
わたしは荷台を見た。樽は八つ。縄でしっかり縛ってある。
それから、道の土を見た。
轍が、深い。
「有難うございます。けれど、井戸を見ながら参りますので」
「井戸」
男の目が、ほんの少しだけ動いた。丸い顔のまま、目だけが動いた。
「井戸なんぞ見て、面白うございますか」
「面白くはありません。仕事です」
「そりゃあいい」
男は笑って、鞭を鳴らした。
「井戸が仕事になる土地ですからな、ここは」
荷馬車が行ってしまってから、ノラが言った。
「水屋」
「水を売っているのですか」
「ベルナーさんとこの。北のいい泉から汲んでくるんだって」
「北の泉」
「あんたが行った方じゃなくて、もっと北の。荷馬車で二日」
わたしは板を見た。北のほうは、まだ白い。
「おいくらですか」
「樽一つで、冬は二十スー。夏は……六十」
わたしは、歩きながら足を止めた。
「三倍ですか」
「夏はみんな飲むから、しょうがないって」
「値が上がるのは分かります。三倍は、上がりすぎです」
「そう?」
「はい。運ぶ手間は夏も冬も同じです。上がるとしたら、水そのものが減ったときだけです」
ノラは黙った。
それから、少し低い声で言った。
「去年の夏は、八十だった」
わたしは板を持ち直した。
炭で、街道の脇に小さく印を打つ。荷馬車の印だ。
この印が何になるのかは、まだ分からない。分からないものも、描いておく。
印の横に、もう一つだけ書き足した。
——轍、深し。
それから四日かけて、わたしは十九の丸を全部埋めた。
涸れかけが七。数えたら、本当に七つだった。鉄気が四つ。これも合っていた。三年前の記録が、今も合っている。誰も直していないということだ。
絵図が埋まると、形が見えてきた。
涸れかけの七つは、ばらばらに散っているのではない。サルド川の東側に、六つ寄っている。
鉄気の四つは、川の西。
わたしは板を膝に載せて、しばらく見ていた。
水は、上から下へしか流れない。
だから、下で起きていることには、必ず上に理由がある。
川の東側の井戸が涸れかけているなら、東側の地下の水が減っている。地下の水が減るのは、雨が降らないか、あるいは、どこかで先に取られているか。
わたしは炭を持ち上げて、川の線を上流へ辿った。
丘のあたりで、線が途切れた。
そこから先を、わたしは知らない。
夕方、館で絵図を見せた。
辺境伯は卓に板を置いて、両手をついて覗き込んだ。しばらく、何も言わなかった。
「これを、四日で」
「歩いた分だけです」
「私は八年ここにいるが、こういう形で見たことがなかった」
彼は指で川の線を辿った。わたしがさっき辿ったのと、同じ方向に。
そして、同じところで指が止まった。
「ここから上は」
「存じません」
「行っていないのか」
「行けませんでした。道が途中で無くなっておりました」
彼は指を、板の白いところに置いたままにした。
「トゥールの丘だ」
「人は住んでおられますか」
「オーヴという村があった。私が来る前に、皆いなくなったと聞いている」
「いなくなった」
「水が出なくなったそうだ」
部屋の隅で、家令が羽根を止めた。
わたしはそちらを見た。老人は帳面に目を落としたまま、動かない。
「ご存じですか、オーヴのことを」
「……いえ」
家令はそう言って、羽根を持ち直した。持ち直すのに、少し手間取っていた。
この人は四十年この館にいると聞いている。オーヴが無人になったのはご自分が来られる前のことだと、閣下は仰った。閣下が来られる前のことなら、この家令は知っている。
知っていて、いえ、と言った。
わたしは顔を上げた。
「上流の村が、水に困るのですか」
辺境伯が、こちらを見た。
彼も、たった今それに気づいた顔をしていた。
上流は、いちばん先に水が来る場所だ。そこが涸れることは、ある。ないとは言えない。
だが、いちばん上が涸れて、いちばん下が濁っているなら。
あいだに、何かある。
「明日、行ってみます」
「一人では行くな」
「では、ノラを連れて参ります」
「そういう意味ではない」
彼は少し困った顔をした。この人が困るところを見たのは、たぶん初めてだった。
「……私が行く」
「お忙しいのでは」
「忙しい」
彼は板を持ち上げて、灯りに透かした。炭の線が、光に薄く浮かんだ。
「忙しいが、行く」
わたしは頭を下げた。
板を受け取って、部屋へ戻る途中、廊下の窓から北を見た。
夜の丘は、ただ黒い。
絵図の上には、まだ何も描かれていない場所が一つ残っている。
水が、どこへ行ったのか。
そこだけが、分からない。
【今日の水】メジエ村の井戸。赤く、鉄の匂い。煮ると鍋が黒くなります。
お読みいただきありがとうございます。
主人公が板に炭で描いているのは、いわゆる水系図です。何が悪いかを当てるより先に、どこがどう悪いかを並べて描く。そうすると、絵のほうが先に答えを出してしまうことがあります。
次話——舞台がいちど王都へ飛びます。あの断罪の日から、ひと月あまりが過ぎた大聖堂の朝です。




