第6話 水汲み場ができました
「返せぬものは、返せぬと書く」
辺境伯は羊皮紙にそう記して、判を押した。青ではなく、黒い蝋だった。
「大聖堂には、床に置いた旨をこちらから伝える。断罪の場に居合わせた者の名を、三人ほど添えておく」
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑ではない。仕事だ」
彼は封をしながら、こちらを見ずに言った。
「あなたの返事はどうなった」
わたしは、少し息を吸った。
「お受けいたします。水番の職を」
彼は頷いた。それだけだった。喜びもしなかったし、確かめもしなかった。
ただ、封蝋を押し終えてから、こう言った。
「では、井戸は十九だ。まず一本目から」
「一本目は、もう澄んでおります」
「知っている」
広場の井戸端に、木組みを立てた。
大工の手を借りた。柱を四本、腰の高さの台。台の上に樽を三つ、階段状に据える。桶では毎日担ぎ上げねばならないが、樽なら据え置きにできる。上の樽の底には錐で穴を並べ、粗い布、砂、砕いた炭、砂、細かい布の順に敷いた。
いちばん下の樽の腹には、木の栓をつけた。
栓を捻ると、水が出る。
それだけの仕掛けだ。原理も何もない。上から水を入れて、下から出す。あいだに砂と炭が挟まっている。
「これで、井戸から汲んだ水を上に入れていただければ、下の栓から出ます」
集まった人たちに、わたしはそう言った。
「一気に入れないでください。細く。急ぐと砂が崩れます」
誰も返事をしなかった。
「毎朝、上の砂の表を指で掻いてください。三日に一度、砂を全部出して川で洗います。炭は十日に一度替えます。一度に六袋要ります」
誰も返事をしなかった。
わたしは自分で井戸の水を汲み、自分で上の樽へ細く落とした。しばらくして、下の栓から水が出た。柄杓で受けて、光に透かす。
澄んでいる。
「どうぞ」
鍛冶屋の親父が、いちばん最初に手を出した。
飲んで、口を拭って、それから彼は自分の桶を持ってきた。
二人目が並んだ。三人目が並んだ。
昼を過ぎる頃には、列ができていた。
誰も、水の入れ方を覚えようとはしなかった。わたしが上に立って、細く、細く注ぎ続けた。腕が痺れてきた頃、後ろから桶が差し出された。
ノラだった。
「かして」
「いえ、わたしが」
「腕、震えてる」
ノラはわたしの手から桶を取って、樽の上に構えた。細く傾ける。一滴も溢さない。
この子は、水を運ぶ手つきだけは町の誰より上手い。毎朝、一刻半の道を担いできた手だ。
「あんた、ずっとこれやんの」
「毎日やります」
「ふうん」
ノラは注ぎ終えて、桶を下ろした。
「じゃあ、あたしの朝は、無駄になるね」
言い方が、いつもより平たかった。
翌朝、ノラは来なかった。
列はできていた。栓を捻れば水は出る。だから誰も困っていない。困っていないのに、わたしは落ち着かなかった。
水汲み場を町の女に頼んで——頼むと、その女は「聖女さまがお戻りになるまで、誰も触りません」と言った。触ってくださいと言ったのに——わたしは北へ向かう道を歩いた。
町を出て、麦の刈り跡を抜けて、しばらく行くと、道が二つに分かれる。左が泉へ、右が丘へ上がる。
右の道の脇に、石が積んであった。
小さい。膝の高さもない。
その前に、ノラがいた。桶を置いて、しゃがんでいる。
わたしは、少し離れたところで足を止めた。
ノラは振り返らずに言った。
「なんで来たの」
「あなたが来ないので」
「べつに、行かなきゃいけない決まりないでしょ」
「ありません」
風が麦の跡を渡っていった。ノラは石積みの一番上に、指を置いていた。
「ヤン」
ぽつりと言った。
「弟。七つ」
わたしは何も言わなかった。
「去年の夏。水が高くなった夏。井戸が濁って、みんな水売りから買ってさ。うちは買えなかったから、井戸の水、そのまま飲ませた」
ノラの声は、いつもの声だった。毒舌のときと同じ調子で、同じ速さだった。
「三日で腹壊して、五日で立てなくなって、七日目に死んだ」
「……」
「あたしはさ、その七日のあいだ、北の泉まで走ったの。一刻半。往復で三刻。一日一回しか運べない。桶一つぶんじゃ足りないんだよ。飲む水と、体拭く水と、あと、あの子、吐くから」
石積みの前には、水が撒かれた跡があった。今朝の分だ。
「間に合わなかった」
ノラは石から指を離した。
「だから毎朝行ってんの。いま行っても、誰も飲まないけど」
わたしは、しゃがんだ。
背負ってきた革袋を下ろす。中には、今朝いちばんに濾した水が入っている。館へ届けるつもりで持ってきたものだった。
「ノラ」
「なに」
「これを、置かせていただいてもよろしいですか」
ノラが、はじめてこちらを見た。
わたしは革袋の口を開けて、石積みの前の乾いた土に、細く注いだ。
水が土に吸われていく。濁っていない。金気の匂いもしない。
「濾したものです」
ノラは、それを見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……早く来ればよかったのに」
声が、少し崩れた。
「はい」
「一年、早く」
「はい」
「なんで来なかったの」
「王都におりました」
「なにしてたの」
「水を濾しておりました」
「じゃあ、なんでこっちに来なかったの」
「誰も、呼んでくださらなかったからです」
ノラは膝に顔を伏せた。
肩が震えていた。声は出さなかった。この子は、声を出して泣く癖を、もう持っていないのだと思った。
わたしは隣にしゃがんだまま、待った。
風が二度、麦の跡を渡った。
やがてノラが顔を上げた。目の周りが赤い。それを袖でこすって、桶を引き寄せた。
「あのさ」
「はい」
「あんた、名前あるんでしょ」
「リゼットです」
「知ってる」
ノラは桶の縁を親指で弾いた。こん、と鳴った。
「……リゼット」
「はい」
「明日の朝、砂、掻いといてやるから」
町へ戻る道で、ノラはずっと先を歩いていた。
水汲み場には、また列ができていた。栓の前に、あの女が立っている。誰も触っていない、と彼女は言った。誰も触らなくても、水は出る。
列の脇に、馬が繋いであった。
辺境伯が来ていた。
外套のまま、台の前に立っている。人々は少し離れて、頭を下げたまま動かない。この人が広場に立つと、いつもそうなるのだと聞いた。
「閣下」
「栓を、捻ってもいいか」
「どうぞ」
彼は栓を捻った。水が細く出た。柄杓で受ける。
それから、飲んだ。
広場で。
列の全員が見ている前で。
喉が動いた。二度、三度。彼は柄杓を空にして、口元を拭った。
咳は、出なかった。
誰も、その意味が分かっていなかった。ただ、領主が町の水を飲んだというだけの光景だ。
わたしだけが知っている。この人が人前で水を口に運んだのは、八年ぶりだということを。
彼は柄杓を戻して、それだけで馬のほうへ歩き出した。すれ違うとき、こちらを見ずに短く言った。
「二本目の井戸は、東の村だ。明日、案内する」
「はい」
馬が土埃を上げて、坂を上っていった。
列の女が、不思議そうにわたしを見た。
「閣下は、いつも水をお召しになりませんのに」
「そうですか」
「今日はどうして」
わたしは答えなかった。
答えたら、この人はまた「聖女さまの御業」と言うだろう。
御業ではない。砂と、炭と、布だ。
今日だけは、少しだけ、黙っていることにした。
だが、砂は三日で詰まる。炭は十日で死ぬ。
この町の水は、まだ、わたし一人の手の上に載っている。
それでも今日は、桶を持つ手が一つ増えた。
その頃、王都では——
【今日の水】セドラ広場の水汲み場。据え置き三層、栓つき。朝から夕まで、飲めます。
お読みいただきありがとうございます。
ノラが毎朝運んでいた桶は、途中から供えるための水になっていました。間に合わなかった手を、それでも動かし続ける人の話が、わたしは好きです。
次の話から、舞台がときどき王都へ飛びます。あちらの聖水盤には、もう誰も砂を入れておりません。
ここまでお読みくださった方は、ブックマークで先を追っていただけると助かります。いただいたぶんは、炭代に充てさせていただきます。




