第5話 飲めない喉
「では、水に手をかざされたのですね」
「かざしておりません」
「唱えられた言葉は」
「唱えておりません。砂を敷いて、炭を割って、布を張って、水を細く落としました」
若い修道士は、羽根を持ったまま止まっていた。
紙の上には、まだ一行も下りていない。
「……その、砂と炭というのは、たとえでございましょうか」
「砂です。川原の砂です。三度洗いました」
「たとえ、ではなく」
「はい」
彼はもう一人のほうを見た。年かさの書記が、小さく首を振った。
それから羽根が動いた。わたしの見ている前で、こう書かれた。
——聖女、無言のうちに祈りを捧げられ、水たちまち澄む。
「わたしは何も申しておりません」
「はい。無言、と書きました」
彼は本当に善良な顔をしていた。嘘を書いたつもりがないのだ。祈っていないと言われても、祈っていない聖女という言葉が、この人の紙の上には存在しない。だから、いちばん近い形に丸められる。
それは、王都で三年、毎朝わたしの身に起きていたことと、同じ形をしていた。
「桶をご覧になりますか」
「拝見いたしました。有難いことでございます」
拝んだのだ。中を見たのではなく。
書記が箱から小瓶を出した。
「つきましては、こちらの水を少々。院長が、聖水として保管したいと」
「その水は、明日には澄まなくなります」
「え」
「濾した水は、汲み置けば戻ります。四日も置けば匂いも出ます。ですから毎日濾すのです」
二人は顔を見合わせた。
「毎日、でございますか」
「毎日です」
彼らは瓶に水を詰めて、封蝋をして、丁寧に頭を下げて、坂を上っていった。封のされた瓶の中で、明日から水は静かに濁っていくのだろう。
誰もそれを開けなければ、濁ったことにはならないのかもしれない。
その晩、館に呼ばれた。
食堂ではなく、厨の隣の小部屋だった。卓が一つと、椅子が二つ。辺境伯は先に来ていて、上着を脱いでいた。
「食事を、ここで」
「はい」
卓の上には、麦の粥と、塩漬けの肉と、干した果実。それから、水差しが二つ。片方は館の井戸の水、片方はわたしが夕方に濾したものだ。
彼は自分で自分の杯に、濾したほうを注いだ。
飲む。喉が動く。咳は出ない。
それだけのことなのに、わたしは目を離せなかった。
「見ないでいただきたい」
「失礼いたしました」
「……いや」
彼は杯を置いた。
「見ていてもらったほうが、まだいい」
どういう意味ですか、とは聞かなかった。八年ぶんの何かがその一言に畳んであることは、分かったからだ。
わたしは館の井戸の水のほうを、自分の杯に少し注いで、口に含んだ。
硬い。舌の上に細かい粒が残る。喉の奥が、きゅっと締まる感じがある。
健康な喉なら、飲み込める。飲み込んでから、少し胸がつかえる。
これを毎日、人前で。
「何をしている」
「味を見ました」
「やめてくれ」
「明日には濾しますので、今日の分だけです」
彼はまた黙った。それから、ひどく短く言った。
「令嬢のすることではない」
「令嬢は、もうやめさせられました」
彼が笑った。
初めて見た。声は出ていない。口の端が、少し動いただけだ。
燭台の火が短くなった頃、彼は自分の首筋に手をあてた。
左の顎の下から鎖骨まで、皮が引き攣れている。近くで見ると、火傷の痕は思っていたより古い。少なくとも五年、いや、もっとだ。
「戦か、と皆が聞く」
「伺っておりません」
「あなたは聞かない」
「はい」
「なぜ」
「聞いても、水が澄むわけではありませんので」
彼は、また口の端を動かした。
「戦だ」
短く、そう言った。
わたしは頷いた。頷きながら、頷いていない部分が自分の中に残るのを感じた。
先ほど、彼が杯を傾けたとき、口の中が見えた。上顎の奥にも、同じ引き攣れがあった。
外から焼かれたのなら、内側には来ない。
あれは、熱いものか、あるいは焼くものを、自分で飲み込んだ痕だ。
わたしは何も言わなかった。言わないでおくことは、この土地に来てから覚えた数少ない技術のひとつだった。
「オルレンド殿」
「はい」
「修道院へは、上がらなくていい」
わたしは顔を上げた。
「あちらには話をつける。代わりに、館に部屋を用意させた。井戸を見てもらいたい。領内に十九ある。涸れかけが七、鉄気のものが四。全部あなたに任せたい」
「わたしに」
「給金を出す。年に十二フロリン。少ないが、水番の職としては前例がない額だ。前例がないので、私が決めた」
水番。
その言葉が、卓の上に置かれた。
わたしは自分の手を見た。爪の際が黒い。指の関節が荒れて、皮が厚い。王都では、この手を毎朝、白い手袋の下に隠していた。聖女の手は白くなければならないと言われていたからだ。
「その手は」
彼が言った。
「令嬢の手ではない」
「ええ」
「誰に教わった」
「……人に、教わりました」
母、とは言わなかった。まだ言えなかった。母の手も、同じところが荒れていた。子どもの頃、わたしはその手が嫌いだった。屋敷の他の誰の手とも違ったからだ。
「その人は」
「もうおりません」
彼は頷いて、それ以上聞かなかった。
わたしはしばらく、返事をしなかった。
ここにいてもいい、と言われている。祈らなくていい、と言われている。手を隠さなくていい、と。
そんな話は、聞いたことがなかった。
だから、返事の仕方が分からなかった。
「考えます」
「ああ」
彼はそれで納得した顔をした。この人は、返事を急がせない。
扉が叩かれたのは、その直後だった。
家令が入ってきて、盆の上に一通を載せていた。蝋の色を見て、わたしは息を止めた。
大聖堂の封蝋。青。
「オルレンド様へ、王都より早馬でございます」
わたしは受け取った。指が冷たくなっていた。
封を切る。
文面は短かった。
——浄めの聖女の聖印は、大聖堂の財産である。速やかに返上せよ。十日以内に届かぬ場合、相応の処置を取る。
わたしは、二度読んだ。
三度読んで、卓に置いた。
「何と」
「聖印を返せと」
「持って出たのか」
「いいえ」
わたしは首を振った。
「あの日、断罪の広間で、外して床に置きました。三百人が見ております。殿下の足元です」
燭台の火が、一度だけ揺れた。
辺境伯が書状を取り上げて、目を走らせた。
「では、大聖堂にあるはずのものだ」
「はい」
「それが、無いということだな」
わたしは頷いた。
無いのだ。あの広間から地下の宝物庫まで、聖印を運ぶのは聖女付きの侍女の役目だった。侍女は置かれていなかったので、三年間、わたしが自分で運んでいた。今、その役目は誰のものでもない。
誰も、それを引き継いでいない。
誰も、覚えようとしなかったからだ。
わたしは、笑いそうになった。笑ってはいけないと思って、口を押さえた。
「十日で、王都までは届きません」
「ああ」
「届かなければ、相応の処置を取ると」
「その処置は、あなただけに向くのか」
辺境伯が、静かに聞いた。
わたしは答えられなかった。
この人は今日、わたしを雇うと言った。雇えば、この書状の宛先は、この館になる。
同じ夜、王都。
大聖堂の地下、樽の並んだ水場に、灯りが一つ揺れていた。
アニエス・オルレンドは、その真ん中に立っていた。
三日前から、この場所を捜している。
姉が毎朝ここで何をしていたのか、彼女は知らない。見たことはある。何度も見た。だが、見たものを言葉にしたことは一度もなかった。姉は祈っていたのだと、そう答えてきた。答えるたびに、皆が満足した。
聖印は、どこにもなかった。
樽の水は、灰色に沈んでいた。
【今日の水】ドラン館の井戸。硬く、粒が残ります。濾せば、飲めます。
お読みいただきありがとうございます。
飲めない、と言えないまま八年やってきた人と、やったと言えないまま三年やってきた人の話です。二人とも、言えばよかったのですが、言えなかったので、こうして水を挟んで向かい合っています。
次話——町に水汲み場ができます。そして、ノラが毎朝どこへ行っていたのかが分かります。




