第4話 誰も覚えようとしない
朝、広場へ行くと、桶に花が供えてあった。
野の花だ。黄色い小さいのが、三つ重ねた桶のいちばん上に、輪にして置かれている。誰かが早くに摘んできたのだろう。露がまだ乗っていた。
わたしはしばらくそれを見ていた。
それから花をどけて、上の桶を持ち上げた。中の砂は昨日のまま、水を吸って重い。指を差し入れると、表の層に細かい濁りが溜まっている。掻き取って捨て、また水にさらす。
「ああ、聖女さま。触ってしまわれて」
水汲みの女が、慌てて駆け寄ってきた。
「触ります。道具ですので」
「道具、ですか」
「はい。砂は詰まりますから、毎日いちばん上を掻きます。三日に一度は全部出して洗います」
女は、はあ、と言って、それきり黙った。わたしの手ではなく、わたしの顔を見ている。何を言われているか分からない、という顔ではない。分かる必要がないという顔だった。
わたしはもう一度、順に言った。
「砂は川で三度。洗い水が濁らなくなるまで。炭は焼いて消したものを、砕いて。布は二枚、粗いのと細かいのを」
「はいはい」
「覚えていただけますか」
「聖女さまがなさるから澄むんですよ」
女はそう言って、桶に手を合わせた。
昼までに、わたしは七人に同じ話をした。
鍛冶屋の親父は炭のところだけ聞いて、「消し炭ならいくらでもやる」と言った。それは有難い。けれど、次に濁ったとき自分で濾すつもりはないらしかった。
仕立屋の女は布を二種類、束にして持ってきてくれた。「これで足りるかい」と聞くから、足ります、と答えて、では張り方を、と言いかけると、「あたしはいいよ。あんたがやっとくれ」と手を振った。
「わたしがいなくなったら、どうなさいます」
「聖女さまはどこにも行かないでしょ」
行きたくて出ていくわけではない人が、この町には一人しかいない。
パン屋の女房は、いちばん困った。手順を三つ目まで聞いたところで急に泣きだして、あたしみたいな者が真似をしたら罰が当たる、と言った。わたしは、罰は当たりませんと言った。彼女はもっと泣いた。
三層の桶に、また花が増えていた。
「無駄だよ」
ノラだった。井戸の縁に腰かけて、足をぶらぶらさせている。桶は足元に置いてある。空だ。
「聞いていましたか」
「あんた、朝からずっと同じこと言ってんじゃん」
「同じことです」
「うん」
ノラは桶の縁を親指で弾いた。こん、と鳴る。
「だから無駄だって」
「なぜでしょう」
「あの人たちさ、水が澄んだんじゃなくて、聖女さまが来たから澄んだって思ってんの。だから、覚えたら駄目なんだよ。覚えられるものだったら、奇跡じゃなくなるじゃん」
わたしは、手を止めた。
この子は十一だ。
「そうですね」
「わかってんじゃん」
「わかってはいましたが、言葉にされると、少し」
「少し?」
「少し、こたえます」
ノラは、ふうん、と言った。それから井戸から下りて、砂の桶を覗き込んだ。
「これ、上のとこ掻くんでしょ」
「はい」
「毎日?」
「毎日です」
ノラは指を突っ込んで、掻いた。濁りが指の腹に溜まる。それを桶の外へ振って落とし、また掻いた。誰にも教わらない手つきで、二度目からはもう正しかった。
わたしはそれを見ていた。
七人に話して、七人が受け取らなかった。八人目は聞いてもいないのに手が動いている。
「ノラ」
「なに」
「明日の朝も、来ていただけますか」
「朝は無理」
「お忙しいのですか」
「泉」
ノラは短く言って、桶を持ち上げた。
「北の。歩いて一刻半」
「……この井戸の水を濾せば、行かなくてよくなります」
ノラは背を向けたまま、少しのあいだ止まっていた。
「べつに」
それだけ言って、行ってしまった。
空の桶が、その背中で鳴っていた。
夕方、館へ水を届けた。
辺境伯は執務室にいた。机の上に、羊皮紙の切れ端と、炭の削りかす。何か書いていたらしい。
「昨日の」
「はい」
「順序を、書き留めておきたい。粗い布、砂、炭、砂、細かい布。合っていますか」
「合っています。ただ、砂の厚みが」
わたしは指を三本立てた。彼は書き足した。字は掠れているが、丁寧だった。
部屋には、彼が飲みかけた杯があった。空になっている。
「咳は」
「出ていない」
それだけだ。彼は礼を言わない。昨日から一度も。けれど杯が空になっていることが、たぶん彼の言い方なのだと思った。
扉が叩かれて、白髪の家令が入ってきた。
「閣下。明後日の件、修道院より重ねてのお運びで。院長が、ぜひ夕餉を共にと」
「断れ」
早かった。わたしが顔を上げるより早かった。
「しかし、三度目で」
「断れ」
家令は口を結んで、頭を下げて出ていった。
家令の足音が、廊下の奥へ消えていった。
辺境伯は羊皮紙に目を落としたままだ。指の背が白い。
「……水が」
言いかけて、やめた。
夕餉の席には、必ず水が出る。硬い水だ。この土地の水は、どこの卓に出ても濁っているか、鉄の味がする。人前で、それを口に運んで、咳き込む。八年、そうやってきたのだろう。
だから会食を避ける。避けているうちに、避けている理由のほうが忘れられて、あの辺境伯は人を寄せつけない、という話だけが残る。
わたしは何も言わなかった。
言えば、この人は「気を遣われた」ことのほうを覚えてしまう気がした。
代わりに、杯にもう一杯注いだ。
彼は少し驚いた顔をして、それから飲んだ。
それから、二日。
朝と夕に桶の砂を掻き、川原で新しい砂を洗い、同じ話を、また四人にした。四人とも、手を合わせて帰った。
三日目の夕方、川原から広場へ戻ると、桶の周りに人だかりができていた。
わたしは足を速めた。
いちばん上の桶が、地面に下ろされていた。中身の砂が、そのまま石畳にぶちまけられている。誰かが両手ですくって、布の袋に詰めていた。
「何を」
「聖女さまの砂です」
男は顔を輝かせて言った。
「これを家に置けば、うちの井戸も澄むと」
「澄みません」
「え」
「その砂は、水を通してはじめて働きます。袋に入れて置いておくだけなら、ただの砂です」
男の手が止まった。周りの何人かが、ばつの悪い顔で後ずさった。地面の砂は、もう土と混ざっている。三度洗ったぶんが、全部だ。
わたしはしゃがんで、砂を掬った。土が混じっている。使えない。
明日、また川原へ行くしかない。
膝の下で石畳が冷たかった。日が沈むと、この土地は急に冷える。
「……あの、聖女さま」
男が、おそるおそる言った。
「怒っておいでですか」
怒ってはいない。
怒りではない。これは、もっと平たいものだ。祭壇に載せられた道具は、道具として使われない。奇跡と呼ばれた手順は、手順として渡らない。王都で三年、そうだった。ここでも三日でそうなった。
わたしは砂を桶に戻して、立ち上がった。
「怒っておりません」
「では」
「明日、川原へおいでください。砂の洗い方をお教えします」
男は返事をしなかった。
その時、坂の上から鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。修道院の鐘だ。人々が一斉にそちらを向いた。
坂道を、灰色の衣が下りてくる。二人。前の一人は年若く、後ろの一人は書き物の箱を胸に抱えている。箱には、留め金と、鎖と、封蝋の道具まで下がっていた。
人垣が割れた。
若いほうがわたしの前で足を止め、恭しく頭を下げた。
「浄めの聖女、リゼット・オルレンド様とお見受けします」
「その名は返上いたしました」
「院長の名代で参りました。三日前、この広場で起きました奇跡につきまして——」
彼は箱を開けさせ、羽根と墨壺を取り出した。
「記録を、取りに参りました」
わたしは、地面の砂を見た。それから、桶を見た。
「記録でしたら」
わたしは言った。
「手順をお渡しします。書き写していただければ、明日から、どちらの井戸でも」
若い修道士は、たいそう優しい顔で微笑んだ。
「いいえ。奇跡の次第を、でございます」
【今日の水】セドラ広場の井戸。砂は撒かれ、洗い直し。今日は、濾せておりません。
お読みいただきありがとうございます。
手順を教えるのに必要なのは技術ではなく、「これは奇跡ではない」と相手に認めてもらうことなので、実はいちばん難しいところです。この話の主人公はこの三日で十一人に断られて、一人にだけ勝手に覚えられました。
次話——坂の上の人たちは、桶ではなく祈りの言葉を書き留めて帰ります。そして王都から、書状が一通。




