第3話 祈っておりません、濾しただけです
炭は、鍛冶屋にあった。
「炭ならあるが、いい炭だぞ」
「焼き直したものが要るのです。一度おこして、赤くして、それから土で伏せて消したもの」
鍛冶屋の親父はしばらくわたしを見ていたが、やがて「消し炭か」と言って、奥から籠を出してきた。黒くて軽い、崩れやすい炭。
「そんなもの、何にする」
「水に使います」
「水」
親父は籠を渡しながら、ふん、と鼻を鳴らした。信じてはいない。ただ、消し炭は屑だ。屑をやるのは惜しくない。それだけの顔だった。
布は仕立屋でもらった。
「端切れでよろしいので」
「端切れならいくらでもあるが、あんた、繕い物かい」
「いいえ。二種類ください。目の粗いものと、できるだけ細かいもの」
仕立屋の女は、棚から二束を出して並べた。麻の粗いのと、晒しの細かいの。
「細かいほうは、赤子の肌着に使うやつだよ」
「ちょうどいいです」
女はわたしの顔をしばらく見て、それから細かいほうを一枚多く足した。
「なんだか知らないけど、足りないより余るほうがいいだろ」
この町の人は、そういうところがある。理由を聞かずに一枚多くくれる。王都では、理由を聞かれて、聞いたあとで断られた。
砂は、町はずれの川原から。
わたしは膝をついて、砂を掬っては水にさらした。濁りが流れる。もう一度。まだ流れる。三度目で、洗い水がほとんど濁らなくなった。
「何やってんの」
ノラだった。土手の上から見下ろしている。
「砂を洗っています」
「砂を洗うって何」
「砂を洗うと、水が澄みます」
「意味わかんない」
「そうでしょうね」
ノラは土手を降りてきた。しゃがんで、わたしの手元を覗き込む。
「……三回目じゃん、それ」
「見ていましたか」
「べつに」
と言いながら、ノラは自分の桶を置いて、砂を掬った。真似をして、水にさらす。濁りが流れる。
「まだ濁ってる」
「ええ」
「あと何回」
「洗い水が澄むまで」
ノラは黙って、もう一度さらした。
二度、三度と繰り返すうちに、この子の手つきから力が抜けていった。掬う量が、だんだん同じになっていく。
広場へ戻ったのは、日が傾きはじめた頃だった。
桶は三つ。上から順に置く。
いちばん上の桶の底に、錐で穴を開けた。仕立屋でもらった目の粗い布を敷く。その上に、洗った砂。厚く。指の三本ぶん。
次に、砕いた消し炭。手のひらで押さえて平らにする。粉が舞って、指がまた黒くなる。
その上に、また砂。
指を挿し入れて、厚みを測る。指の三本ぶん。厚ければ、水はいつまでも落ちてこない。薄ければ、濁ったまま素通りする。
いちばん上に、目の細かい布。
二つ目の桶を下に置いて、受ける。
三つ目の桶に、井戸の水を汲む。灰色の、鉄と粘土の水。
人が集まってきていた。列に並んでいた人たちだ。誰も声を出さない。
わたしは井戸の水を、布の上へ、細く落としはじめた。
一気に注いではいけない。砂の層が崩れる。
細く。細く。
最初のうちは、何も落ちてこなかった。砂が水を吸っている。
誰かが「やっぱりな」と言った。
ノラが振り返って、その方向を睨んだ。
わたしの隣に来て、小さな声で言った。
「まだ?」
「まだです」
「どのくらい」
「砂が湿るまで。乾いた砂は、先に自分が飲みます」
「砂が飲むの」
「そういうものです」
ノラは桶の縁に顎を載せて、下から覗き込んだ。何も落ちてこない。
「……ねえ」
「はい」
「これ、うまくいかなかったら、あんたどうすんの」
いい質問だった。この子は、うまくいかない可能性を数に入れている。広場の大人は誰も入れていない。信じていないか、あるいは端から諦めているかの、どちらかだからだ。
「もう一度やります」
「それでも駄目だったら」
「砂を替えて、もう一度」
ノラは、ふうん、と言った。
やがて、下の桶に音がした。
ぽつ。
一滴。
落ちた。
わたしは注ぐ手を止めなかった。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。ぽつぽつ。線になる。
下の桶に、水が溜まりはじめた。
誰かが息を呑んだ。
澄んでいた。
夕方の光が斜めに差して、桶の底の木目が見えた。灰色ではない。金気の膜も浮いていない。
「……嘘だろ」
鍛冶屋の親父の声だった。いつのまにか、いちばん前に来ている。
わたしは注ぎ終えて、上の桶を横へどけた。下の桶を両手で持ち上げ、光にかざす。
濁りは、ない。
匂いを嗅ぐ。鉄の匂いが、ほとんど消えている。
柄杓で一杯すくって、舌先に載せた。
まだ少し金気が残る。二度通せば消えるだろう。けれど、飲める。
「飲めます」
声が、思ったより大きく出た。
誰も動かなかった。
当然だ。今まで灰色だったものが澄んだからといって、いきなり口に入れる者はいない。信じるというのは、そういうふうにはできていない。
人の輪が割れた。
辺境伯が歩いてきた。
黒い外套。土埃。首筋の引き攣れた痕。
彼は桶の前に立って、中を見た。それから、わたしを見た。
わたしは柄杓を差し出した。
この人は、飲まないだろうと思った。飲めないのだ。昼に見た。半分も飲まないうちに、喉が鳴って、咳が出た。あれは水が悪いからだけではない。喉そのものが、ざらついたものを通せない。
だから、飲まないだろうと。
辺境伯は柄杓を受け取った。
そして、飲んだ。
一口。
止まらなかった。
二口。三口。喉が動いている。咳は、出ない。
彼は柄杓を空にした。
それから、しばらく何も言わなかった。空の柄杓を持ったまま、桶の底を見ていた。手が、少し震えていた。
誰も、桶を置く音を立てなかった。
「……もう一杯、いただけますか」
掠れた声だった。
わたしは柄杓を取って、もう一杯すくった。
彼はそれも飲んだ。
二杯目を飲み終えて、彼は口元を手の甲で拭った。それは昼に咳を押さえたのと同じ仕草だったが、意味が違っていた。
誰かが泣いていた。
鍛冶屋の親父が、両手で顔を覆っていた。
「聖女さまだ」
誰かが言った。
「聖女さまが来なさった」
「浄めの奇跡だ」
「王都の聖女さまだ、やっぱり」
声が広がっていく。人が膝をつきはじめる。誰かがわたしの足元に手を伸ばした。
——ああ。
また、これだ。
わたしは、三つの桶を見た。砂と、炭と、布。川原で三度洗った砂。屑としてもらった消し炭。仕立屋の端切れ。
どれ一つ、奇跡ではない。
わたしは膝をついている人の前にしゃがんだ。
「祈っておりません」
その人が顔を上げた。
「濾しただけです」
言葉が、広場の石にぶつかって落ちた。
誰も、意味が分からないという顔をしていた。
辺境伯だけが、桶の三つの重なりを見ていた。上から順に、目で辿っている。穴。粗い布。砂。炭。砂。細かい布。
彼が顔を上げた。
「もう一度、やってみせてもらえますか」
「何度でも」
わたしは立ち上がって、袖をまくり直した。
「それに、お教えできます。誰にでも」
その日、広場の井戸の前に、桶が三つ並んだままになった。
夜になっても、人が見に来ていた。誰も触らなかった。触ってはいけないものだと思っていたからだ。
そして三日後、その話は坂の上の修道院に届き、修道院から神殿へ、神殿から王都へ、手紙になって運ばれていくことになる。
わたしはまだ、そのことを知らない。
【今日の水】セドラ広場の井戸、一度通し。金気わずかに残り。飲めます。
お読みいただきありがとうございます。
砂・炭・砂の三層は、実際にある古い浄水の手順です。特別な材料は一つもありません。だからこの話の主人公は、最初から誰にでも技を渡せます。渡した先で受け取ってもらえるかは、別の話ですが。
次話——「奇跡の記録を取りに来ました」。坂の上から、人が下りてきます。
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