第2話 桶を三つ、貸してください
北へ行くほど、水の味が変わる。
馬車が街道の宿場で止まるたび、わたしは井戸端へ寄って、柄杓の水を一口だけ舌に載せた。王都を出て二日目までは、甘い。三日目から、金気が混じりはじめる。四日目には、口の奥に薄い錆の味が残った。
衛兵は最初の日だけついてきて、二日目の朝にはいなくなっていた。逃げたところで行く先などない、と思われたのだろう。実際そのとおりだった。
五日目の昼過ぎ、御者が「セドラだ」と言った。
ドラン辺境領の町。北の国境まで、あと半日。
町は思っていたより大きかった。石積みの家が斜面に沿って三段に重なり、いちばん下の段に広場がある。広場の真ん中に、井戸。
人が並んでいる。
三十人ほど。桶を持って、黙って並んでいた。
列は動かない。
正確には、動くのだが、遅い。先頭の女が滑車の綱を引いて、桶を上げて、中身を自分の桶へ移す。それから少し待つ。もう一度綱を引く。二度汲まないと桶が満たない。
水位が低いのだ。
列の後ろのほうに、小さな子を連れた女がいた。子は四つか五つ。母親の腰にしがみついて、顔を伏せている。日陰にいるのに、顔色が悪い。
「立てるかい」
前に並んでいた老女が声をかけた。
「立てます」
母親のほうが答えた。子どもは何も言わなかった。
わたしは馬車を降りて、荷を足元に置いた。修道院はここから坂を上った先だと聞いている。まっすぐ行くべきだった。行くべきだったが、足が井戸のほうへ向いた。
匂いがしたからだ。
坂の上には、白い建物が見えていた。修道院。あそこで祈りと沈黙のうちに一生を終えよ、というのが父の申し渡しだった。
わたしは祈り方をよく知らない。三年間、聖女と呼ばれていたのに、祈祷の作法は最後まで覚えなかった。覚える必要がなかったのだ。朝、地下に用があったから。
坂を上る前に、井戸を一つ見るくらいは、許されるだろうと思った。
列の脇を通って、井戸の縁まで行った。誰も止めなかった。石の縁は濡れていて、苔が黒く縁取っている。中を覗くと、水面が遠い。桶が一つ、鎖の先で揺れていた。
引き上げた。
水は、灰色だった。
王都の聖水盤の濁りとは違う。あれは細かい濁りだ。これは重い。指を入れると、粒が指の腹に当たる。舌先に一滴。
鉄。それと、たぶん粘土。
「何してるの」
声がした。
振り返ると、子どもが立っていた。十くらいだろうか。もう少し上かもしれない。痩せていて、背は低いが、目つきが大人だった。両腕で桶を抱えている。空の桶ではない。水が入っている——それも、澄んだ水が。
「王都の聖女さまが、何しに来たの」
どうして分かるのか、と思って、自分の服を見た。旅装に着替えたつもりだったが、袖の縁の縫い取りが残っていた。
「ここ、祈っても水は出ないよ」
「……そうでしょうね」
「え」
子どもが、少し目を開いた。
「そうでしょうね、って」
「祈って水が出るなら、この列は要らないでしょう」
子どもは黙った。それから、抱えた桶を持ち直した。
「……ノラ」
「え」
「あたしの名前。あんたのじゃなくて」
なるほど、と思った。名乗ったわけだ。
ノラの桶の水は澄んでいる。この井戸のものではない。
「その水は、どこで」
「北の泉。歩いて一刻半」
「一刻半」
「行きも帰りも」
「毎日ですか」
「毎日」
「誰かに頼まれて?」
ノラは答えなかった。桶の縁を親指で弾いた。ぱん、と乾いた音がした。水の量を確かめる癖らしい。
「頼まれてない」
それだけ言って、口を閉じた。
毎日。この量を。
桶一つは、大人が一日に飲むぶんにも足りない。それを一往復三刻かけて運ぶ。
わたしは井戸のほうを振り返った。列に並んでいる人たちは、灰色の水を汲んでいく。子どもを連れた女もいる。その子は顔色が悪くて、母親の腰にしがみついていた。
夏だ。
これから、いちばん水の要る季節が来る。
この水で、夏を越すのか。
「あんた」
ノラが言った。
「あの子、腹こわしてる。三日前から」
「……ええ」
「昨日も一人こわした。その前も」
ノラの声は平坦だった。責めてもいないし、助けを求めてもいない。ただ、数えている者の声だった。
わたしは、この声を知っている。
馬の蹄の音がした。
「アルヴィス様だ」
誰かが言って、広場の人々が、いっせいに道を空けた。
馬から降りたのは、背の高い男だった。黒い外套。北の土埃を全身にかぶっている。年は三十に届かないくらい。近づいてくると、顔の左側から首筋にかけて、引き攣れた痕があるのが分かった。火傷だ。古い。
男は井戸の前で足を止めた。
「今日はどうだ」
「変わりません、閣下」
誰かが答えた。閣下、と聞こえた。
この人が、ドラン辺境伯。
男は柄杓を取って、桶の水を汲んだ。口へ運ぶ。
半分も飲まないうちに、動きが止まった。
喉が、鳴った。
男は柄杓を下ろし、口元を手の甲で押さえた。肩が一度、大きく動く。それから低く、押し殺すように咳をした。
二度。三度。
誰も何も言わなかった。見慣れているのだと分かった。見慣れていて、どうしようもないのだとも。
男は咳がおさまるまで待ってから、柄杓を桶に戻した。水はほとんど減っていない。
「閣下。無理をなさらんでください」
先頭にいた女が、小さく言った。
「無理ではない」
掠れた声だった。
「町の者が飲む水だ。領主が飲めぬ道理はない」
道理はある、とわたしは思った。
喉が通らないのは道理の問題ではない。飲めないものは飲めない。それを毎日、人前で試している人だということが、その一言で分かってしまった。
そして、顔を上げた。
目が合った。
しまった、と思ったが遅かった。この人は、こちらを見る前からこちらを見ていた気がする。
「見ない顔だ」
「……本日、王都から参りました」
「ああ」
それだけだった。何をしに来たのかも、なぜ王都からなのかも、聞かれなかった。
代わりに、男はわたしの手を見た。
わたしは反射的に手を握った。爪の際の黒。荒れた指の関節。三年ぶんの、水と炭。
「その手は、令嬢の手ではない」
掠れた声だった。喉のせいだろう。低くて、聞き取るのに少し集中が要る。
「……はい」
「何の手だ」
わたしは、答えるまでに少し時間をかけた。
王都では、この問いを一度も受けなかった。三年間、一度も。
「水の手です」
男の眉が、わずかに動いた。
笑われるだろうか、と一瞬だけ思った。王都では笑われた。侍女に手を見られて、「まあ、洗い場の女中のよう」と言われたことがある。悪気はなかったのだと思う。
この人は笑わなかった。
わたしの手をもう一度見て、それから自分の手を見た。剣と手綱の手だ。皮が厚く、指の付け根が硬い。
「なるほど」
と、彼は言った。それだけで、話が済んだような言い方だった。
それから彼は、井戸のほうへ顎をしゃくった。
「では聞く。この水は、どこまでなら飲めますか」
わたしは井戸を見た。列を見た。ノラの抱えた澄んだ桶を見て、腹をこわした子どもを見た。
「そのままでは、飲めません」
「そうか」
「ですが」
わたしは荷を地面に置いて、袖をまくった。
「桶を三つ、貸してください。あとは炭と、目の細かい布を」
【今日の水】セドラ広場の井戸。灰色、鉄と粘土。そのままでは飲めません。
お読みいただきありがとうございます。
辺境の領主さまが水を飲めないのは、気位が高いからではありません。理由は、そのうち。
次話——リゼットが袖をまくります。砂と炭と布が三層に重なるまで、あと一話。




