第10話 巡察使
巡察使は、四日目の昼に着いた。
馬が六頭。荷馬車が一台。灰色の衣が三人と、剣を提げた者が四人。
町の人は道の両側に寄って、頭を下げていた。誰も声を出さない。王都の紋が入った旗が、風もないのに立てて運ばれていた。
先頭を歩いてきた方が、シメオン司祭だった。
四十半ば。背は高くない。痩せていて、頬がこけている。目つきが鋭いのではなく、まばたきが少ない。それだけで、人はこの方を怖いと思う。
館の広間で、わたしは呼ばれた。
卓を挟んで、シメオン司祭。その後ろに書記が二人。わたしの隣に、辺境伯。
「リゼット・オルレンド」
「はい」
「聖印を」
「持っておりません」
書記の羽根が動いた。
「持っていない、と」
「あの日、断罪の広間で外して、床に置きました。宮廷の方々が見ておられます」
「大聖堂に、無い」
「わたしの手元にも、ございません」
シメオン司祭は、まばたきをしなかった。
辺境伯が、卓の上に書状を置いた。黒い封蝋。
「当日の在席者の名を三人添えて、先月送った。返事は来ていない」
「読みました」
「では」
「読みましたが、書かれているのは『置いたのを見た』という証言でございます。置いたものが、その後どうなったかは、誰も書いておりません」
わたしは、少し息を吸った。
この人の言っていることは、正しい。正しいから、答えられない。
「わたくしどもは、無くなったものを探しております。誰が悪いかは、まだ申しておりません」
シメオン司祭は、そこで初めてまばたきをした。
「ただ、探すべき場所の順序というものがございます。最後に触れた者から順に」
それから、司祭は椅子に座り直した。
「もう一つ、ございます」
「伺います」
「辺境にて、聖水に類する行いをなす者があると、報告が上がっております」
「報告」
「坂の上の修道院より、記録が」
わたしは、思い出した。
——聖女、無言のうちに祈りを捧げられ、水たちまち澄む。
あの一行が、王都まで届いたのだ。
広間の隅に、灰色の衣が一人立っていた。あの日、羽根を持って震えていた若い修道士だ。
彼は、わたしと目が合うと、下を向いた。
悪気は無かったのだと思う。この人は、見たものをいちばん近い言葉に丸めただけだ。丸めた言葉が坂を上り、神殿を通り、王都で決裁を受けて、剣を提げた者を四人連れて戻ってきた。
言葉というのは、水より速い。
わたしは首を振った。
「奇跡は行っておりません」
「では、何を」
「濾しております」
「濾す」
「砂と、炭と、布を重ねて、水を通します。上から入れて、下から出します。それだけです」
書記の羽根が止まった。
シメオン司祭は、しばらくわたしを見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「あなたは、教会の聖水と同じ働きを、砂で行っていると仰る」
「働きが同じかどうかは存じません。濁った水が、澄みます」
「聖水と同じ働きを、砂で」
二度、同じ言葉を繰り返された。
わたしは、そこで初めて、この方が何を怖がっているのかを理解した。
わたしが噓をついていることを怖がっているのではない。
本当のことを言っていることを、怖がっている。
広場へ、一行が下りた。
水汲み場には、いつもの列ができていた。栓の前に人が並び、順に桶を満たしている。ノラが台の上で、上の樽へ水を注いでいた。
シメオン司祭は、その前に立った。
栓を捻る。水が出る。彼は柄杓に受けて、光に透かした。
澄んでいる。
書記が帳面を開いた。
「これは、何か」
司祭が、列の先頭の女に聞いた。
女は、慌てて膝をついた。
「聖女さまの、御業でございます」
わたしは、目を閉じた。
「御業」
「はい。あの方が来られてから、水が澄みまして。それはもう、有難いことで」
「祈られるのか」
「祈られます。それはもう、朝に晩に」
祈っていない。
一度も祈っていない。この一月、わたしはこの広場で一度も手を合わせていない。
けれど、この女はそう見ていた。見たいように見て、そう言った。
シメオン司祭が、こちらを向いた。
初めて、口の端が動いた。笑ったのではない。得たものを確かめる顔だった。
「聞かれましたか」
「聞きました」
「町の者は、あなたを聖女と呼んでおります」
「わたしは名乗っておりません」
「名乗らずに呼ばれるほうが、質が悪うございます」
書記の羽根が走った。
わたしは、自分の指が冷たくなっていくのを感じた。
この一月、わたしは何度も「奇跡ではありません」と言ってきた。言うたびに、聞き流された。手順を教えようとして、三日で十一人に断られた。そのあとも、数えるのをやめるまで断られ続けた。誰も覚えなかった。
覚えなかったことが、今、証拠になっている。
誰も手順を受け取らなかったから、この町にあるのは「奇跡が起きた」という話だけだ。
わたしが積み上げてきたものは、一つも残っていない。
「見てください」
わたしは前へ出た。
台の上のノラが、こちらを見た。わたしは首を振って、下りなさいと合図した。この子を巻き込むわけにはいかない。
ノラは下りなかった。
「見ていただければ済みます。樽の中を開けます。砂を出します。炭を割ってお見せします」
「その必要はございません」
「必要はございます」
「ございません」
シメオン司祭は柄杓を戻した。
「わたくしが確かめに来たのは、水が澄むかどうかではない。誰の力で澄んだと、この土地の者が信じているかでございます」
風が、広場を渡った。
列に並んでいた人たちが、そろそろと後ずさりはじめた。灰色の衣と、剣を提げた者。誰も、自分の名を呼ばれたくない。
「教会は、手順で清められた水を聖水とは認めません」
司祭は、そう言った。
「同時に、教会の認めぬ力で水が清まると人に信じさせる行いを、異端と申します」
「では、どうすれば」
「やめることでございます」
わたしは、司祭の顔を見た。
「町の水が、濁ります」
「濁った水で、人は千年生きてまいりました」
「子どもが死にます」
「それは、水のせいではございません」
台の上で、桶が鳴った。
ノラが、桶を落としたのだ。空の桶が台から転がって、石畳に当たって、乾いた音を立てた。
全員が、そちらを見た。
ノラは、拾わなかった。
台の上に立ったまま、まっすぐシメオン司祭を見下ろしていた。
「あんた、いま、なんて言った」
「ノラ」
「うちの弟、水のせいで死んだけど」
わたしはノラの腕を掴んで、後ろへ回した。
シメオン司祭は、子どもを見なかった。見ずに、書記のほうへ言った。
「町の者の心情については、別紙に」
書記が頷いた。
「宛先は、いつもの通りで」
「いつもの通りに」
羽根が、紙の上を走った。
わたしはその一言を、耳の奥に留めた。
いつもの通り。この方の報告は、いつも同じところへ行く。それがどこなのかを、わたしはまだ知らない。
その夜、館の窓から広場を見た。
列は、無かった。
水汲み場の周りに、人影が一つもない。栓を捻れば水が出る。誰も捻らない。
厨で、ノラが黙って砂を洗っていた。桶に手を突っ込んで、何度も、何度も。洗い水はもうとっくに澄んでいる。
「ノラ」
「まだ濁ってる」
「澄んでいます」
「濁ってる」
わたしは隣にしゃがんで、この子の手が止まるまで待った。
背中で、扉が開いた。
辺境伯が立っていた。手に、灰色の紙を持っている。
「明朝、広場で検分を行うそうだ」
「検分」
「あの水が、何によって澄んでいるのか」
彼は紙を卓に置いた。
「決めるのは、向こうだ」
【今日の水】セドラ広場の水汲み場。澄んでおります。誰も汲みに来ません。
お読みいただきありがとうございます。
奇跡だと呼ばれ続けた人が、いざ「奇跡ではない」と証明したいときに、いちばん邪魔になるのは、これまでの称賛です。積み上がっていたのは実績ではなく、噂のほうでした。
次話——手順を見せます。見せたうえで、それでも異端と呼ばれます。




