第11話 異端の術
朝、わたしは樽を開けた。
上の樽の布を剝がし、砂を掻き出して、板の上に広げる。次に炭。手のひらで押さえて平らにしてあった層を、そのまま崩さずに取り出した。黒くて軽い。指で押すと崩れる。
その下の砂も出した。
いちばん下の、粗い布も外した。
板の上に、全部が並んだ。
布、砂、炭、砂、布。
「これが、中身でございます」
わたしは言った。
広場には、人が集まっていた。ただし遠い。石畳の縁に沿って、家の壁に背をつけるようにして立っている。
シメオン司祭は、板を見なかった。
板の向こうの、わたしの顔を見ていた。
「触っていただけますか」
「結構です」
「砂は、ただの砂でございます。炭は、鍛冶屋の消し炭です。布は、仕立屋の端切れです」
「存じております」
「では」
「ですから、問題なのです」
彼は一歩前へ出た。
「ただの砂で水が清まるのなら、聖水とは何でございますか」
わたしは答えられなかった。
答えは持っている。持っているが、それを口にしたら、この人は今日ここでわたしを捕らえるだろう。
「教会は千年、水を清めてまいりました。祈りによって。神の力によって。それを、川原の砂で代わりが利くと、あなたは仰る」
「代わりが利くとは、申しておりません」
「では、あなたのそれは何でございます」
「手順でございます」
「手順」
シメオン司祭は、板の上の炭を、初めて見た。
そして、こう言った。
「見せていただいたのは術です。奇跡ではない。ゆえに異端です」
広場が、ざわめいた。
異端。その言葉だけは、この土地の誰もが知っている。
「教会が認めぬ手立てで、教会が担うべき働きを行うこと。これを異端と申します。奇跡であれば、まだ救いようがございました。奇跡は神の側の話ですから、我らが認めればよい。しかし手順は、人の側の話でございます」
彼は板を見下ろした。
「人の側の話は、我らには認められません」
剣を提げた者が二人、前へ出た。
わたしは、動かなかった。
逃げても仕方がない。逃げれば、この町の人が代わりに調べられる。
ノラが後ろから袖を掴んだ。わたしはその手を、指で外した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ」
「はい。大丈夫ではありません」
噓をつくのはやめた。この子に噓をついたことは、まだ一度もない。
剣の者が、わたしの前まで来た。
その前に、黒い外套が入った。
辺境伯だった。
彼は板の前に立って、シメオン司祭のほうを向いた。剣は抜いていない。手も出していない。ただ、そこに立った。
「この領で人を捕らえるなら、私を通せ」
「閣下」
「王命であれば、書付を見せろ。教会の令であれば、司教座の印を見せろ。どちらもなければ、これは検分ではなく、ただの取り立てだ」
シメオン司祭は、まばたきをしなかった。
「閣下は、この者を庇われる」
「雇っている」
「雇う」
「水番だ。給金を払っている。館の帳面に記してある」
辺境伯は、そこで初めて声を落とした。掠れた声が、余計に低くなった。
「うちの奉公人を、書付なしで連れて行かれては困る」
剣の者が、司祭を見た。
司祭は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと後ろへ下がった。
「なるほど。手続きの話でございますな」
「そうだ」
「わたくしは、手続きを重んじます」
彼はそう言って、書記から帳面を受け取った。
「では、手続きに則って進めましょう」
シメオン司祭は、広場の中央へ歩いた。
そして、集まった人々に向かって、よく通る声で言った。
「三日後の朝、この広場にて、審問を行います。町の皆さまは、お集まりください」
誰も返事をしない。
「この者は、祈っていないと申しております。神の力ではなく、砂と炭で水が澄むのだと申しております」
彼はこちらを向いた。
「ならば、証していただきましょう。三日後、わたくしが選んだ水を、わたくしの目の前で、祈らずに澄ませてご覧に入れなさい」
わたしは息を吸った。
「承知いたしました」
「早うございます」
「はい?」
「もう少し、お考えになったほうがよろしい。水はわたくしが選びます」
彼は、口の端を動かした。
「この土地で、いちばん汚い水を」
その日から、水汲み場に人が来なくなった。
朝、栓の下に空の桶が一つ置いてあった。誰かが夜のうちに置いていったものだ。名も、何も書いていない。
わたしはそれを満たして、また置いておいた。
昼には、無くなっていた。
誰が持って行ったのかは分からない。ただ、桶は洗って戻してあった。
人は、水を飲まないでは生きられない。飲まないでは生きられないが、昼日中に飲みに来ることはできなくなった。
わたしは砂を洗った。ノラも洗った。
三日ぶんの砂を、川原で洗い続けた。
「どんな水、持ってくると思う」
ノラが聞いた。
「いちばん汚い水、と仰いました」
「川底の泥とか」
「たぶん」
「濾せる?」
「濾せます。ただ、一度では無理です」
「何回」
「三度か、四度。時もかかります」
「待ってくれる? あの人」
わたしは、砂を掬う手を止めた。
待ってはくれない。あの方は、待つ気がない。あの方が欲しいのは澄んだ水ではなく、澄まなかったという記録だ。
「ですので、こちらで工夫します」
「どうすんの」
「三つ、並べます」
わたしは川原の砂に、指で三つの丸を描いた。
「一度に通すのではなく、三つの樽を続けて置きます。上から下へ、順に落とします。一度で三度ぶんです」
ノラは丸を見た。
それから、自分の指で、四つ目の丸を描き足した。
「四つのほうがよくない?」
「よいですが、水が落ちきるまでに、日が暮れます」
「じゃあ三つでいい」
ノラは砂を払って、立ち上がった。
「あたし、大工んとこ行ってくる」
「わたしが参ります」
「あんた、いま町歩くと、みんな逃げるじゃん」
その夜、辺境伯が川原まで下りてきた。
灯りを持っていた。わたしが暗くなっても砂を洗っているのを、家令が見て言いつけたのだろう。
「明日でいい」
「明後日でございます、審問は」
「なら、なおさら寝ろ」
わたしは手を止めなかった。
彼はしばらく立っていて、それから、灯りを砂の上に置いた。
「負けたら、どうなる」
「異端と記されます」
「それで」
「教会の記した異端は、雇えません。閣下のお立場に障ります」
「そこは聞いていない」
彼は灯りの向こうで、こちらを見ていた。
「あなたが、どうなる」
わたしは、洗い水を捨てた。濁りが川へ流れていく。
「王都へ送られます。裁かれて、たぶん、二度と水には触れません」
「そうか」
「はい」
「では、勝て」
ずいぶん乱暴な励まし方だった。
けれど、この人は「私が守る」とは言わなかった。守ってやると言われたら、わたしは明日の朝、手が動かなくなっていたかもしれない。
「勝ちます」
わたしはそう答えて、次の砂を掬った。
その晩、大工が来た。
黙って庭に木を下ろして、黙って組み始めた。金の話はしなかった。わたしが言おうとすると、手を振った。
「うちの孫が、あの水を飲んでる」
それだけ言った。
夜のうちに、台が三段できた。
審問の朝、そこに樽が三つ並ぶ。
わたしは、庭の隅に積まれた砂の袋を数えた。二十四袋。炭は十八袋。布は、仕立屋の女が「持っていきな」と言って、束のまま置いていった。
わたしはそれを、一つずつ確かめた。
三日後に必要なのは、祈りではない。
砂と、炭と、布と、時間だ。
そのうち、時間だけが足りない。
【今日の水】セドラ広場の水汲み場。誰も来ません。桶は、夜のあいだに空になります。
お読みいただきありがとうございます。
「奇跡なら認めるが、手順なら認められない」というのは、意地悪のようでいて、この司祭にとっては本当に切実な話です。手順は誰にでも渡せてしまうので、渡す係の人が要らなくなります。
次話——三日後の朝です。いちばん汚い水が、広場に運ばれてきます。




