第12話 白い布
水は、荷車で運ばれてきた。
樽が二つ。蓋を開けた瞬間、いちばん前にいた者が後ろへ下がった。
匂いが、風より先に届いた。
「サルド川の淀み、と」
書記が読み上げた。
「および、東の牧の、家畜の水飲み場より」
わたしは樽を覗いた。
茶色ではない。緑がかった灰色だ。表に薄い膜が張っていて、藁屑と、虫と、それから何かの毛が浮いている。底のほうは、もう泥だ。
これは、濁った水ではない。
腐った水だ。
「濾せますかな」
シメオン司祭が聞いた。
「濾せます」
「祈らずに」
「祈りません」
「では、始めていただきましょう」
わたしは袖をまくった。
台は三段。上から順に、樽が三つ。
一段目には、粗い布と、砂だけを厚く。ここで大きいものを止める。
二段目に、砂、炭、砂。
三段目に、砂、炭、砂、そして最後にいちばん細かい布。
ノラが柄杓を持って、いちばん上に立った。
わたしは下で樽の口を見ている。
「入れます」
「はい」
最初の一杯が落ちた。
布の上に、緑がかった水が広がる。藁屑が引っかかる。虫が止まる。水は、なかなか砂に入っていかない。
人が、少しずつ前に出てきていた。
広場じゅうの人が、来ていた。三日前、誰も水を汲みに来なかったこの広場に、今日は町の全員がいる。逃げられなかったのだ。審問には出ろと言われている。
シメオン司祭は、卓を持ち込ませて、そこに座っていた。
「時がかかりますな」
「かかります」
「どのくらい」
「三段を通しきるまで、一刻半ほど」
「一刻半」
司祭は、袖の中で手を組んだ。
「その間、この者たちを立たせておくのは酷でございましょう。何かお話をいたしましょうか」
司祭は、話をした。
千年前、この国に疫病が流れた話。祈りによって水が清まり、村が救われた話。大聖堂の聖水盤の由来。歴代の浄めの聖女の名。
上手だった。
声がよく通って、間が的確で、笑うところがきちんとある。この方は、こういうことに長けている。人は、こういう話を聞くと安心する。
そして、話の終わりに、こう言った。
「——さて。もしこの水が澄んだとして」
彼はこちらを見た。
「それは、この方が祈らなかった証になりますか」
人々が、こちらを見た。
「ならぬのです。心の中の祈りは、誰にも見えません。手を合わせずとも祈ることはできる。この方が黙って水を注いでおられるあいだ、心で何を唱えておられるか、どなたに分かりましょう」
水が、二段目に落ちはじめていた。
わたしは注ぐ手を止めなかった。
この方の言うとおりだ。心は見えない。見えないものを証明することは、できない。
だから、証明するものを、心の外に置かねばならない。
一刻半が経った。
三段目の樽の下に、澄んだ水が溜まっていた。
わたしは栓を捻った。
柄杓に受ける。光に透かす。
澄んでいる。匂いも、無い。
わたしは一口飲んだ。飲んでから、柄杓をもう一度満たして、司祭の前に置いた。
広場が、静まりかえっていた。
「……澄みましたな」
「はい」
「見事でございます」
シメオン司祭は柄杓を取らなかった。取らずに、立ち上がった。
「では、これで、あなたが祈らなかったことになりますか。——なりませぬ。先ほど申し上げたとおり」
彼は人々のほうを向いた。
「皆さま。この方は今、心で祈っておられたかもしれません。祈っておられなかったかもしれません。それは誰にも分かりません。分からぬものを、教会は認めることができません」
人が、ざわめいた。
ざわめきの中に、諦めの色があった。この土地の人は、こういう終わり方に慣れている。上から来た人が来て、上から来た人の言い分で終わる。
わたしは、台のいちばん上へ登った。
「一つ、お見せしたいものがございます」
わたしは、一段目の樽の布を外した。
両手で持ち上げて、広げる。
白かった布が、黒い。
藁屑と、虫と、毛と、泥と、緑の膜。それが、布の目に食い込んで、べったりと残っている。
人が、息を呑んだ。
わたしは二段目の布を外した。
こちらは、薄い茶色だ。細かい粒が布の目に詰まっている。
三段目の布を外した。
白い。ほとんど白いが、光にかざすと、うっすらと膜のような曇りが乗っている。
わたしは三枚を、順に並べて掲げた。
「奇跡ならば、布は汚れません」
わたしの声は、思ったよりよく通った。
「神が水を清められるのなら、汚れは消えるはずでございます。消えて、無くなるはずでございます。ですが、ここにあります」
わたしは一枚目の布を、司祭の前に置いた。
「消えておりません。移っただけです」
匂いが立った。誰かが顔を背けた。
「この水にあった汚れは、いま、この布と、この砂と、この炭の中にございます。わたしが祈って消したのではありません。わたしは、置き場所を変えただけです」
わたしは布を掲げたまま、広場を見渡した。
「祈りは、汚れを移しません。手順は、移します」
誰も、何も言わなかった。
わたしは二枚目の布を、列の先頭にいた女に差し出した。
四日前、「聖女さまの御業でございます」と膝をついた人だ。
女は、受け取らなかった。手を後ろに回して、首を振った。
「そんな、恐れ多い」
「布でございます」
「でも」
「洗えば、また使えます。三度洗って、日に干せば」
女は、おそるおそる指を伸ばした。
布の端をつまんで、目の高さまで上げる。細かい粒が、目に詰まっているのが見えたのだろう。彼女は「あら」と言った。
小さな声だった。
「あら、これ……砂じゃないの」
「砂と、井戸の底のものです」
「これが、うちの水に入ってたの」
「入っておりました。今は、入っておりません」
女は布を見た。それから、自分の子どもを見た。
しばらくして、いちばん後ろで、鍛冶屋の親父が言った。
「……そりゃ、そうだ」
小さい声だった。
けれど、静かだったので、広場じゅうに届いた。
「そりゃそうだ。汚れは、どっかに行かなきゃならん。うちの炉だって、そうだ」
誰かが頷いた。
もう一人が頷いた。
わたしは布を下ろして、シメオン司祭を見た。
「もう一つ、申し上げます」
「まだ、ございますか」
「これは、どなたにもできます」
わたしは板の上に、砂と炭と布を並べた。
「祈りには、資格が要ります。手順には、要りません。今この場で、どなたでも結構です。おやりになりたい方は、前へ出てください。わたしがお教えします」
石畳の上を、風が一度渡った。
誰も出てこない。
わたしは待った。
シメオン司祭の後ろで、若い書記が一人、身じろぎをした。羽根を置いて、帳面を膝から下ろしかけた。
その手が、途中で止まった。
司祭が、彼を見ていた。
書記は帳面を膝に戻して、羽根を取り直した。
「よろしいですか」
シメオン司祭が、静かに言った。
「布のことは、承りました。理屈も、承りました」
「はい」
「ですが、わたくしが持ち帰るのは、理屈ではございません。記録でございます」
彼は書記のほうへ、手を伸ばした。
書記が帳面を渡す。司祭はそれを開いて、この一刻半のあいだに書かれた頁を、しばらく眺めた。
それから、その頁を破った。
人が、声を上げた。
司祭は破った紙を丁寧に折りたたんで、袖に入れた。
「今日のことは、記録に残しませぬ」
「なぜでございます」
「残らぬものは、無かったことでございます」
彼はわたしを見た。まばたきをしなかった。
「あなたは、そういう扱いを、王都で三年、お受けになってきたはずでございますが」
【今日の水】サルド川の淀みと、牧の水飲み場。三段通し。一刻半かけて、飲めます。
お読みいただきありがとうございます。
汚れは消えるのではなく移るだけ、というのが濾過という技術のすべてで、この話の主人公が武器にできるものも、結局そこしかありません。祈りには移し先が要りませんが、手順には要ります。
次話——第2章の終わりです。巡察使が坂を上っていきます。ただし、手ぶらではありません。




