表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽聖女と断罪された私、聖水の正体は祈りではなく〈濾過〉でした 〜辺境の井戸を澄ませていたら、王都の聖水が濁りはじめましたけれど〜  作者: 白鷺ユウ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/13

第12話 白い布

 水は、荷車で運ばれてきた。


 樽が二つ。蓋を開けた瞬間、いちばん前にいた者が後ろへ下がった。


 匂いが、風より先に届いた。


「サルド川の淀み、と」


 書記が読み上げた。


「および、東の牧の、家畜の水飲み場より」


 わたしは樽を覗いた。


 茶色ではない。緑がかった灰色だ。表に薄い膜が張っていて、藁屑と、虫と、それから何かの毛が浮いている。底のほうは、もう泥だ。


 これは、濁った水ではない。


 腐った水だ。


「濾せますかな」


 シメオン司祭が聞いた。


「濾せます」


「祈らずに」


「祈りません」


「では、始めていただきましょう」


 わたしは袖をまくった。


 台は三段。上から順に、樽が三つ。


 一段目には、粗い布と、砂だけを厚く。ここで大きいものを止める。


 二段目に、砂、炭、砂。


 三段目に、砂、炭、砂、そして最後にいちばん細かい布。


 ノラが柄杓を持って、いちばん上に立った。


 わたしは下で樽の口を見ている。


「入れます」


「はい」


 最初の一杯が落ちた。


 布の上に、緑がかった水が広がる。藁屑が引っかかる。虫が止まる。水は、なかなか砂に入っていかない。


 人が、少しずつ前に出てきていた。


 広場じゅうの人が、来ていた。三日前、誰も水を汲みに来なかったこの広場に、今日は町の全員がいる。逃げられなかったのだ。審問には出ろと言われている。


 シメオン司祭は、卓を持ち込ませて、そこに座っていた。


「時がかかりますな」


「かかります」


「どのくらい」


「三段を通しきるまで、一刻半ほど」


「一刻半」


 司祭は、袖の中で手を組んだ。


「その間、この者たちを立たせておくのは酷でございましょう。何かお話をいたしましょうか」


 司祭は、話をした。


 千年前、この国に疫病が流れた話。祈りによって水が清まり、村が救われた話。大聖堂の聖水盤の由来。歴代の浄めの聖女の名。


 上手だった。


 声がよく通って、間が的確で、笑うところがきちんとある。この方は、こういうことに長けている。人は、こういう話を聞くと安心する。


 そして、話の終わりに、こう言った。


「——さて。もしこの水が澄んだとして」


 彼はこちらを見た。


「それは、この方が祈らなかった証になりますか」


 人々が、こちらを見た。


「ならぬのです。心の中の祈りは、誰にも見えません。手を合わせずとも祈ることはできる。この方が黙って水を注いでおられるあいだ、心で何を唱えておられるか、どなたに分かりましょう」


 水が、二段目に落ちはじめていた。


 わたしは注ぐ手を止めなかった。


 この方の言うとおりだ。心は見えない。見えないものを証明することは、できない。


 だから、証明するものを、心の外に置かねばならない。


 一刻半が経った。


 三段目の樽の下に、澄んだ水が溜まっていた。


 わたしは栓を捻った。


 柄杓に受ける。光に透かす。


 澄んでいる。匂いも、無い。


 わたしは一口飲んだ。飲んでから、柄杓をもう一度満たして、司祭の前に置いた。


 広場が、静まりかえっていた。


「……澄みましたな」


「はい」


「見事でございます」


 シメオン司祭は柄杓を取らなかった。取らずに、立ち上がった。


「では、これで、あなたが祈らなかったことになりますか。——なりませぬ。先ほど申し上げたとおり」


 彼は人々のほうを向いた。


「皆さま。この方は今、心で祈っておられたかもしれません。祈っておられなかったかもしれません。それは誰にも分かりません。分からぬものを、教会は認めることができません」


 人が、ざわめいた。


 ざわめきの中に、諦めの色があった。この土地の人は、こういう終わり方に慣れている。上から来た人が来て、上から来た人の言い分で終わる。


 わたしは、台のいちばん上へ登った。


「一つ、お見せしたいものがございます」


 わたしは、一段目の樽の布を外した。


 両手で持ち上げて、広げる。


 白かった布が、黒い。


 藁屑と、虫と、毛と、泥と、緑の膜。それが、布の目に食い込んで、べったりと残っている。


 人が、息を呑んだ。


 わたしは二段目の布を外した。


 こちらは、薄い茶色だ。細かい粒が布の目に詰まっている。


 三段目の布を外した。


 白い。ほとんど白いが、光にかざすと、うっすらと膜のような曇りが乗っている。


 わたしは三枚を、順に並べて掲げた。


「奇跡ならば、布は汚れません」


 わたしの声は、思ったよりよく通った。


「神が水を清められるのなら、汚れは消えるはずでございます。消えて、無くなるはずでございます。ですが、ここにあります」


 わたしは一枚目の布を、司祭の前に置いた。


「消えておりません。移っただけです」


 匂いが立った。誰かが顔を背けた。


「この水にあった汚れは、いま、この布と、この砂と、この炭の中にございます。わたしが祈って消したのではありません。わたしは、置き場所を変えただけです」


 わたしは布を掲げたまま、広場を見渡した。


「祈りは、汚れを移しません。手順は、移します」


 誰も、何も言わなかった。


 わたしは二枚目の布を、列の先頭にいた女に差し出した。


 四日前、「聖女さまの御業でございます」と膝をついた人だ。


 女は、受け取らなかった。手を後ろに回して、首を振った。


「そんな、恐れ多い」


「布でございます」


「でも」


「洗えば、また使えます。三度洗って、日に干せば」


 女は、おそるおそる指を伸ばした。


 布の端をつまんで、目の高さまで上げる。細かい粒が、目に詰まっているのが見えたのだろう。彼女は「あら」と言った。


 小さな声だった。


「あら、これ……砂じゃないの」


「砂と、井戸の底のものです」


「これが、うちの水に入ってたの」


「入っておりました。今は、入っておりません」


 女は布を見た。それから、自分の子どもを見た。


 しばらくして、いちばん後ろで、鍛冶屋の親父が言った。


「……そりゃ、そうだ」


 小さい声だった。


 けれど、静かだったので、広場じゅうに届いた。


「そりゃそうだ。汚れは、どっかに行かなきゃならん。うちの炉だって、そうだ」


 誰かが頷いた。


 もう一人が頷いた。


 わたしは布を下ろして、シメオン司祭を見た。


「もう一つ、申し上げます」


「まだ、ございますか」


「これは、どなたにもできます」


 わたしは板の上に、砂と炭と布を並べた。


「祈りには、資格が要ります。手順には、要りません。今この場で、どなたでも結構です。おやりになりたい方は、前へ出てください。わたしがお教えします」


 石畳の上を、風が一度渡った。


 誰も出てこない。


 わたしは待った。


 シメオン司祭の後ろで、若い書記が一人、身じろぎをした。羽根を置いて、帳面を膝から下ろしかけた。


 その手が、途中で止まった。


 司祭が、彼を見ていた。


 書記は帳面を膝に戻して、羽根を取り直した。


「よろしいですか」


 シメオン司祭が、静かに言った。


「布のことは、承りました。理屈も、承りました」


「はい」


「ですが、わたくしが持ち帰るのは、理屈ではございません。記録でございます」


 彼は書記のほうへ、手を伸ばした。


 書記が帳面を渡す。司祭はそれを開いて、この一刻半のあいだに書かれた頁を、しばらく眺めた。


 それから、その頁を破った。


 人が、声を上げた。


 司祭は破った紙を丁寧に折りたたんで、袖に入れた。


「今日のことは、記録に残しませぬ」


「なぜでございます」


「残らぬものは、無かったことでございます」


 彼はわたしを見た。まばたきをしなかった。


「あなたは、そういう扱いを、王都で三年、お受けになってきたはずでございますが」

【今日の水】サルド川の淀みと、牧の水飲み場。三段通し。一刻半かけて、飲めます。


お読みいただきありがとうございます。


汚れは消えるのではなく移るだけ、というのが濾過という技術のすべてで、この話の主人公が武器にできるものも、結局そこしかありません。祈りには移し先が要りませんが、手順には要ります。


次話——第2章の終わりです。巡察使が坂を上っていきます。ただし、手ぶらではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ